参考文献 * Référence
![]() | ショパン(アーサーへドレイ訳) | 白水社 |
![]() | ジャン=ジャック エーゲルディンゲル | 音楽之友社 |
![]() | ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル | 音楽之友社 |
![]() | 平野啓一郎 | 新潮社 |
![]() | バルバラ スモレンスカ=ジェリンスカ | 音楽之友社 |
![]() | 堀内みさ、堀内昭彦 | 東京書籍(株) |
![]() | 遠山一行 | 新潮社 |
![]() | 石井清司 | ヤマハ |
![]() | 足達 和子 | 未知谷 |
![]() | 小坂 裕子 | 集英社 |
![]() | ジョルジュ・サンド | 藤原書店 |
![]() | シューマン | 岩波文庫 |
推薦図書 (2020年以降追記) | ||
![]() | ゾフィア ヘルマン | 岩波書店 |
![]() | ゾフィア ヘルマン | 岩波書店 |
Grand ami , Eugène Delacroix
![]() ![]() |
サン・シュルピス聖堂に残る絵画 |
「フランスの全ての画家は、彼の偉大なるパレットを通して描いている」 by セザンヌ
「彼」とは、ウジェーヌ・ドラクロワさん。ショパンの親友です。
彼が最期に住んだ家(1857~63年)を訪れました。
ドラクロワの絵画といえば、
ぱっと見て感じていたものが、モネやルノワールの絵のようなほわほわではなく
暗・重・陰・惨・闘・強い憧れ・・、
事実をばんっと突きつけてくるような絵も多いですよね・・。
そして、小説「葬送」で登場するドラクロワさんの語り口調もそのような感じに感じ。。
ドラクロワさんの思考を読んでいると毎回気分が重~~くなっていたので
私たちは家(アトリエ)もさぞかし重い空気なのかなと・・・(ごめんなさい笑)
行くのもちょっと覚悟していました(笑)
しかし、行ってみると、とても爽やか。
とても気持ちがよく、柔らかで細やかな空気が体に染み込むような・・・
優しい優しい空間でした。
![]() |
お庭から望むアトリエ |
「私の小さな庭の眺めとのどかなアトリエは、いつも私に喜びをもたらしてくれる。」 (1857年の日記)
http://blog-imgs-37.fc2.com/n/a/o/naopiano2/CIMG4466s.jpg" target="_blank">![]() |
アトリエ向かいの住居(2階) & 家の周辺 サン・ジェルマン・デ・プレ辺りで画家さんたちが多く住んだ地域です。 |
ウィーンのシューベルトの家のように、周りのアパルトマンに囲まれてぽつっと四角い?お庭があって
周辺の少しがやがやとした街並みの中に、すぽっとそこにだけ、静寂ができていました。
木が風にそよいで鳥が遊びに来て・・ずっといたくなるような場所でした。^^ もう一度行きたいです。
ここの木々たちはドラクロワ自身が植栽したそうです。
ルノワールやマネ、フランスの後々の画家たちは、ドラクロワから「感じ取り方」を学び
ピカソやマティスたちも大きな影響を受け、たくさんの「模写」を残したと言われています。
代表作は「民衆を導く自由の女神」。
![]() |
La Liberté guidant le peuple @ Musée du Louvre |
ショパンとドラクロワって、白×黒という感じがします。(そういえば、お墓も・・(笑))
2人とも思っていることも、天才ゆえの自分しか感じない感覚という孤独も、そんなに変わらない。
ただ表に・・性格や作品に表れてくるものは、ちょっとだけ形が違います。
でも、ドラクロワに現れていた、上記のような黒い雰囲気はショパンも内にもっていたし
ショパンがもつ柔らかさや品、優しさ、寛容も、同じようにドラクロワも持っていたのだと思います。
だからお互い分かり合えて、なんでも語り合えたのでしょう。
本を読んでいて、ショパンにそういう人がいて良かったと、心から思いました。
![]() |
Portrait de Mme Leon Riesener |
美や調和の究極の一瞬・空気を、作品にとどめるもの。
ドラクロワにとっても、ショパンは感覚を分かち合える
大事な人だったでしょう。
小説「葬送」の中で、この2人が語り合うシーンは本当に良くて・・
言葉の端々に、2人の優しさや気品、いたわりが溢れている、
とても好きなシーンたちです。
その口調は、私が日々、個人的にショパンの音楽から感じていた
ショパン像と寸分の違いもなく、そして
その話し言葉や呼吸、登場した時の空気は、
ショパンの音の置き方、音色・テンポにそのまま繋がります。
パリでもノアンでも、たくさんの語らいをもった2人ですが、ドラクロワは、
「ノアンでショパンが演奏してくれたこと、
それはこれまでのどんなおしゃべりよりも素晴らしかった」
といっています。
芸術を感じ合う、
これよりも多くの想いを共有できることはないのではないかと、思ったりします。
ショパンもドラクロワも、それぞれの絵、音の中に、
数々の「信頼のかけら」を見つけていたのでしょう。

「100年後に、皆が私のことをどう思っているか知りたい」と言い残したドラクロワさん。
色はあせるけれど、形が永遠に変わらない、メッセージの伝わってくる絵画たち見て
形がとどまらない音楽を演奏する者として、作品そのものの良さ、メッセージを
そのままの形でちゃんと残してあげたいなと、改めて思いました。
written in Jan 2010
Eglise de la Madeleine
![]() |
1849年10月17日2:00am ヴァンドーム広場の家でショパンは亡くなりました。39歳でした。
彼は亡くなる2・3時間前に、ベッリーニとロッシーニ、ヘンデルの3曲のアリアを歌ってくれるよう
友人のポトツカ夫人に頼みました。それが彼がこの世で聴く最期の音楽となったと言われています。
ショパンは亡くなるその時も、母親にはとうとう会えないままでした。
![]() |
奥がルドヴィカ 泣いているのがソランジュ(サンドの娘) |
![]() ![]() ![]() |
喪主は姉ルドヴィカです。
モーツアルトの「レクイエム」やショパンの「葬送行進曲」が奏でられる音楽葬となり、世紀の作曲家の葬儀は、教会の中も外も人で溢れかえっていたそうです。
パリらしい、とても大きな教会でした。
この教会と向かい合ったずっと先には、同じようなエンタシスの柱を持った
国会議事堂があります。
偉大な作曲家の葬儀に・・と、当時の人々のショパンへの親愛もとても感じられる
立派な教会でしたが、とにかく大きく。。^^*
大きすぎる、人の多すぎるホールは苦手だったショパンですから、
なんだか、ワルシャワの小さな教会に早くつれて帰ってあげたいような
そんな気持ちにも、ちょっとなってしまいました。^^
でも、お別れしたい人がたくさんいたでしょうから・・・
この大きさになってしまいますよね。
「私は、どんな楽しいときでも、私の心の奥底にはある情緒がいつもまとわり
ついています。それはポーランド語でしか表現できません。
ジャル(ŻAL) という情緒です」
ŻALとは、愛するものの不在、哀、嘆、儚、諦、悔、憧、懐、望、愁、
などの複雑な感情。
ショパンはいつも何かしらの孤独の中で生きていました。
でも、遠くからいつも幸せと健康を祈ってくれていた家族、
その大きな愛情・願いが、彼の体の奥には常に通っていたことでしょう。
どんなに苦しくても生きたのは、その人々の想いを受け止めていたからだと
思います。そして、異国で暮らしていても、その優しさ、気品、
素朴で自然な心持ちのため、多くの人に愛されました。
ペールラシューズ墓地へと運びこまれたショパン。
棺の上にはワルシャワを出る時に手にしたポーランドの土が撒かれたというエピソードも
一説として残っています。
ポーランドは、ショパンの生きた時代、ロシア・ドイツ・オーストリアに進攻され
「ポーランド」として地図上に存在していませんでした。
ショパンの目の前で処刑される人もいるような時代の中で、
ポーランドの人々は言語や文化を守ることに命がけでした。
ショパンを国外へと送り出したのも、「ポーランド」を残すためでもありました。
1人の天才に、その国の精神・魂の存続を託したのでした。
ポーランド人たちの革命の気が高まる中で、1人出国することは、
臨終の近い家族・友人を放って旅立つような、つらいつらい、決断だったでしょう。
「僕はみんなの夢です・・・」
切り裂かれるような想いでポーランドをあとにし、ショパンは音楽活動を続けました。
祖国への愛情、無念、遠く離れた人に自分の存在を伝えること、遠く離れた人を励ますこと・・・
彼の音楽の原動力は、ポーランドと切り離すことができませんでした。
ショパンを弾いていると、いつも遠くを想う気持ちになります。
また、これまで会ったショパン弾きのピアニストさん、ポーランドの方や、ショパン愛好家の方たちは、
本人の感情よりもこちらの感情を代弁したり、心配してくれたり、気持ちを先に汲み取って下さる・・・
そんなこともとても多いことに気づきました。
それはショパンの性格とも共通するような・・・じんわりとなる瞬間で、
そんな色々な人との関わりからも、私は「ショパン」を、そして、人や音の温かさを
教えていただいた気がしています。
自分が思いやりを持つ心を大事にしていないと、弾けない音色、気づけないハーモニーがある・・
ショパンを弾くことは、それを知ることでもあります。
それは簡単なことではなく怖いことでもありますが、どんな音楽や想像力にも繋がることで、
いつも振り返りながら大切に気をつけていきたいなと、思わせてもらえるものです。
「音楽」は、人の「外側」を取り払ってくれます。
音の中にある、喜び、悲しみ、安らぎ、孤独、、
経験する出来事が人それぞれ違っても、人が感じることはみんな同じです。
同じだから、みんなで一緒に幸せでありたいと思わせてくれる。
音楽は全ての垣根を取り払って、そんな所につれて帰ってくれるものだと思います。
人の心奥深くに寄り添うショパンの音楽は
今も、これから先の未来も、時代も国も超えてたくさんの気持ちを届け、
人々を慰め、励ましてくれることでしょう。^^
![]() ![]() |
written in Oct 2009
Vienna
今回はシューベルトやシュトラウスの家なども訪れてみました。
(ウィーンのショパンは前回の記事をどうぞ。)


今回のヨーロッパの幕開けは、飛行機の中で偶然みつけたブッフビンダー(ピアノ)のリサイタルでした。
彼の演奏は、先生に貸していただいたBeethovenのチェロソナタで知っていて
とても好きな演奏だったのです^^
到着したその夜、チケットを買って楽友協会へ。1869年に完成した歴史ある黄金のホール。
ウィーンフィルの本拠地です。
![]() ![]() |
舞台の上にも客席が☆ ここは世界一素晴らしい音響のホールといわれていますが、
ヨーロッパのホールは日本の現代のホールと響きが少し違うように感じました。
日本のホールは、雑音が少なくピアノの響きが直接臨場感を持って届いてきますが、
![]() |
チケットもキラキラ♪ 4つのコンサートやバレエに 行きました。 |
もっと空気も一緒に含んだ「自然な音」がやってくるように・・・私は感じました。
自然界の音を聴くときのように、こちらが耳を澄ます体勢に入らないと隅まで聴こえないような・・・。
大阪で言うと、中央公会堂の音に似ています。
(そういえば外観も似ていますね^^)
聴いている人たちが、リラックスしつつ集中している雰囲気なのは、そんな音の要因もあるのかな?と思ったりしました。
さてさて、思いつきで気軽に入ったこのコンサート、思いがけず大感動を得てしまいました。
シューマンの交響的練習曲、遺作の変奏も加えた40分ほどの大曲です。
最初は、素晴らしく繊細なテクニックを持ちながらも、あまり味付けしない弾き方に、
「あれ、何もしないのかな?」と聴いていたら、時間がたつごとに
じわりじわりと胸に迫るものが積み重なっていって・・・・
20分過ぎたくらいから涙が止まらなくなりました。
全てを見通して、最低限の表現しかしていなかったのです。
例えるなら、ただ真実のみを「淡々と」語られた、という具合でしょうか。。
そして、ブッフビンダーさんの存在を全く感じない演奏でした。
かといって、シューマンが濃くでてくるのかというとそうでもなく、それよりもさらに先のもの・・
舞台上に、ピアニストも作曲家もいないような、音という精神?だけが存在するような・・・
そんな音楽でした。
すごい演奏を聴いてしまいました。
足すのではなく、どんどん引いていく。
なんだか人生を説かれたようでした(^^*
友と2人ですっかりすっぴん状態になってしまい、帰路についたヨーロッパ初日の夜だったのでした。^^

![]() |
アンコールはSchubert:Impromptu op.90-4 |
wrote in 16 Nov 2008 * b a c k << * t o p △
Domaine de George Sand à Nohant
![]() |
「ジェラゾバヴォラに似ている・・・」
最初にこのノアンを訪れた時、ショパンはそんな風に言いました。
(ジェラゾヴァヴォラは、ポーランドのショパンが生まれた地です。)
パリから電車で2時間、バスで1時間離れたこの村は、とてものどかでゆるやかな場所でした。
ここにはショパンの恋人、ジョルジュサンドの館があり、ショパンは彼女と一緒に
毎夏ここで過ごし、その7年間、ほとんどの作品がこの地で生まれました。


![]() ![]() |
パリのAusterlitz(オステルリッツ駅)から中継地のChateauroux (シャトールー)へ向けて出発。
今は電車がありますが、ショパンの時代はノアンまで30時間馬車に揺られていた道のりです。
現在日本からヨーロッパへの飛行機が約12時間ですが、その倍以上の30時間・・・。。
頭がぐらぐらになりそうですね^^*
ショパンの時代まだまだ馬車が主流で、今で言うタクシーのような辻馬車から、
バスのような乗合馬車、長距離の駅馬車などがありました。
ショパンは自分の馬車を持っていたのでそちらも利用したり、客人を迎えにいかせたりしました。
馬車のニュアンスといえば、
ベートーヴェンの作品の左手に、でこぼこ道を走る様子がよく現れてくる気がします。
ショパンは・・・葬送ソナタの左手などはそんなニュアンスともとれますね。。^^*
モーツアルトは手紙の中で馬車の様子をこんな風に言っています。
「魂が放りだされそうな駅馬車で、夜の間一睡も出来ず、座席は石のように硬く、ずっとクッションに両手を突っ込んで、お尻を中に浮かせて行った」 |
(小学館 高橋英朗「モーツアルトの手紙」) |
「夜通し凹凸道に揺られたせいで、地面に降りても暫くまっすぐに立つことが出来なかった。 下半身が熱を含んだように痺れていた。車輪の振動が、一緒に馬車を降りて来て、尻に張りついているようであった。周りを見渡すとみな同じような前屈みの姿勢になってよろよろと歩いている。そこから腰の痛みを堪えつつゆっくりと状態を起こす様が、何とも言えず滑稽である。」 |
(新潮文庫 平野啓一郎「葬送」1巻上) |
そんな思いをしてまで毎年ノアンへ通うのは、やはり特別なことだと感じました。
こんな後にふかふかのベッドに寝転んだりすると至福だったことでしょう^^
さて、そんな長い道のり、ショパンたちはシャトールーなどで休憩や宿泊したりしながら
ノアンへ向かいました。
シャトールーに着くと駅前には大きな教会がありました。
![]() |
建立碑をみると古い教会だったので、ショパンも訪れたかもしれませんね。
![]() |
それにしてもフランスの教会はどれも大きいです・・・ ワルシャワの2倍? |
シャトールー駅からバスに乗り換えてNohant-Vic(ノアン村)を目指します。
![]() ![]() |
途中は右も左も広い広い平原。
![]() |
ひつじ |
小さな町を通って・・・
![]() |
かわいすぎます![]() |
![]() |
![]() |
きゅんきゅんです![]() |
そしてまた平原が続きます。
![]() |
1時間後、ついにノアン到着です。
![]() |
ベリー地方。フランスのちょうど真ん中に降り立ちました。
![]() |
wrote in 25 Oct 2008 * b a c k << * t o p △


~・ Tranquillité ・~
バスを降りると・・・ 静かです。 のどかです。
でもポーランドのワジェンキ公園とはまた違う空気。。
あちらが「清」「澄」・・水が流れるような音が空気のなかに聞こえるよう・・と表現するなら、
こちらは「牧歌」「平穏」・・・ゆっくり流れる時間の音・・もう少し体の下の方に響くような安心感のある音・・
そういったような空気に感じました。^^
![]() |
どこを歩いても、視界の3分の2は空でした。
ポーランドもそうですが、視界の半分以上が空という清々しい感覚は
ショパンのどんな曲にも保たれている清らかさと、深く繋がっているように感じます。
ノアンの広い空にかかる、空気のカーテンのような層は、初めてだけれど知っているような、
そんな安らげる心地で、バラード4番の前奏が思い浮かびました。
そして、ショパンを追って来たけれど、ここはサンドの土地であることを何よりも強く感じました。
ショパンらしい、というよりも、サンドらしい、土地でした。
![]() |
改めて考えてみれば、ここは2人の芸術家が次々と
”無”から”有”を生み出していった土地です。
広い空、雲の色の移り変わり、都会から離れ、でも繋がっているというほど良い距離感。
周りには平原しかない隔離されたこの場所では、
自然に自分の心の奥のハーモニーが聞こえてくる・・・。
ショパンの中に眠る才能に、ショパン自身
一番近づける場所だったのかもしれません。
written in 12 Feb 2009 * b a c k << * t o p △
~・ Nostalgie ・~
風のハーモニーと木々のざわめき・・・刻々と変わる空と心の色・・・
お庭を歩いている間はずっと、ソナタの3番(1st mov.第2主題~)が頭の中にとても自然に流れていました。
当時、ショパンのピアノの音色も、そんな風にお庭に香っていたことでしょう

![]() ![]() ![]() |
ソナタの3番は、姉のルドヴィカとの14年ぶりの再会を機に、書き上げることができた作品です。
姉妹の中でもルドヴィカはショパンと気質が良く似ていたそうで、
小さな頃は連弾やおしゃべりをよくする、仲のよい姉弟でした。
サンドはこんな風に言っています。
「(ショパンは)愛する人たちから長い間わかれておりますので、ずっと緊張しつづけでおります。・・・長い間彼の考え続けていたことは、彼が愛する人々の幸福と、彼が得た幸福をこれらの人々と分かち合えない悩みでした。 私のできることは何でもやりましたがそのことを忘れさせることはできませんでした。」 「あなた(ルドヴィカ)がおいでになって・・・彼の気持ちから苦々しいものはいっさい消え去って、勇気としっかりしたものがもたらされました。 たくさんの傷が癒され、新しい希望に胸をふくらませ ・・・ (あなたでなければ)こんなにひと月も幸せを楽しむことなぞ、できなかったでしょう。 あなたはショパンがこれまでにかかった、最高のお医者様です。」 (ショパンの手紙) |
![]() |
ショパンはノアンにルドヴィカが来てくれた時の様子を、
「幸福で気が狂いそうだ」と言っています。(vーv。)
この時期のショパンの音楽にある、
![]() |
ショパンの部屋の窓 |
この姉との1ヶ月の時間がとても影響していたのではないでしょうか・・?
ショパンは、姉が帰ってしまったあとの不在の風景の中に、
いつもその面影や幻想を描いていました。
姉が過ごした部屋に入ってはその姿を想い、馬車が停まっては
姉が降りてこないかと思い・・・
・・・そう思うと、今の時代はどこにでもすぐ行けるし、電話もメールも
出来るし・・・ でもこのような時代や状況だと、1度会えなかったら
もう2度と会えないかもしれない。逢う喜びや別れる寂しさ、求める心が
現代のそれとは少し違うでしょうね。。
ソナタ3番の他に、彼の作品の中でも特に美しい”舟歌”や
”幻想ポロネーズ”、”ノクターンop.62”、”マズルカop.59”などは
こんな時期に作曲がすすめられていました。
揺るぎないあたたかさと、そして、それとは対極にある様々な想いの中で・・・。
written in 12 Feb 2009 * b a c k << * t o p △
~・ Existence ・~
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
2階中央にあるショパンの部屋、2階廊下、階段とエントランス。 寒いのでショールを巻いていたら壁紙と同じになりました(笑) |
2階のショパンの部屋の扉だけは防音のため2重にされています。(写真左と右)
当時は隣の部屋と繋がって1つだったそうです。
ショパンは作曲を全身全霊で行っていました。1小節作るのに100回書き直したり。
公に出すまでには1~3・4年やそれ以上あたためては推敲し、不完全と思われるものは
決して公表しませんでした。(遺作が多いのはそのためです。

現代の演奏者も同じように、1小節、1音について、感じるある音色を求めて、
何百回と確かめていると思います。
それは、そんな風にして創り出された作品なので、自然にそうしたくなるというのもあるのでしょう。

![]() ![]() ![]() ![]() |
1階に下りまして、洗面所 ・ キッチン。 ショパンは朝はよくチョコレートを飲んでいました。(写真右のショコラティエールは実際使われたものだそうです。) |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
食堂や客間。 |
この館では、夕食は集まる、という決まりがありましたが、それまでは各々自由に過ごす
という風にされていました。
パリでの生活もそうでしたが、サンドとショパンは一緒に過ごしながらも、いつも適度な距離を保っていました。
![]() ![]() ![]() ![]() |
1階の窓 ・ 屋敷正面の菩提樹 ・ 裏庭 ・ 敷地内の教会。 |
裏庭のベンチ(写真)では、ドラクロワとよく語っていたそうです。
ドラクロワはノアンに3度ほど訪問し1ヶ月くらい過ごしたそう。
隅の方に座ってみました。
その時に、私はなんとなく自然に、ショパンが隣に座っているのを想像してみていました。
白い柔らかいブラウス、男性独特?の少し硬そうな肌質、高い座高・・・
それは、これまでには思ったことのない、「年を重ねた男性のショパン」でした。
いつも、音楽の中では、性別もなく年齢も超えた「精神」に意識が向いていきますが
でも当たり前だけれど、ショパンは男性で、そして皮膚も変わっていく生身の人間だったんですよね。
実際にここで生きていて、呼吸をして、体の重さを感じて・・・ということを、
なんだかもっと身近に実感した瞬間でした。
ショパンの曲の中の、心臓が血を流すような「痛い音」は、心の痛みだけでなく、体の痛みも実際にあり、
それは切り離せないものだったことでしょう。。
音やハーモニーには、少しの間でも、痛みを忘れさせてくれるものがあると・・・
私は個人的に、思うのですが、
ショパンが自分で奏でる音は、自分のそんな痛みも緩和し、そして力を与えてくれるものだったのではと、
そんなことを思ったベンチでのひと時でした。
![]() |
モーリスとソランジュの記念樹 |
1845年頃からは、館内ではサンドとモーリス(息子)やソランジュ(娘)、クレザンジェ(その夫)たちが
始終揉めるようになりました。
(これが本当になかなかすごい揉め方で


そのいざこざから、次第にサンドとショパンの関係にも距離が生まれてきていました。
![]() |
たくさん生まれました。
サンドは誰よりもショパンを解ることのできる人でした。
言葉がなくとも、ショパンに必要なものを感じることができ、
それは家族と会えず病弱なショパンにとって大きな安らぎであり、
「音楽」という使命を持ったショパンにとって最高のパートナーでした。
最後は誤解の積み重ねで離れてしまった2人です。
サンドと別れてしまってからのショパンは、本当に枯れた泉のように
頭から、心から、「音」が遠のいてしまい、
作曲もほとんどできなくなりました。
written in 16 Feb 2009 * b a c k << * t o p △


![]() |
ノアンで泊まったAuberge(宿泊のできるレストラン)Petite Fadetteです。
ジョルジュサンドの館のすぐ隣にあって、ホテルはここしかありません。
この地帯にはサンドの館とこのオーベルジュと民家が数件、しかないのです^^(あとは草原です。 )
![]() ![]() ![]() |
かわいすぎるお部屋に、到着して15分くらいひたすら撮影会です。 |
ここではピアノが弾けました。
フランスに入ってからは特にピアノに飢えていたので
到着した日も、次の朝も、私たちは水を得た魚のように延々と弾いていました。
ピアノは心も体もリセットしてくれます^^
友人とピアノを弾き合いできるのはとても楽しく嬉しいです。
友人が弾いてくれることで、ちょっと離れるとこんな風に聴こえるんだ

自分が弾いているときには聴くことができない場所や感覚で楽しむこともできます。
他にも連弾をしたり、ソロ曲を右手と左手に分けたり協奏曲を無理やり1台で弾いたり^^
![]() |
建物のいろいろな壁の装飾にあたって丸い響きを生み出してくれ、
ひとつの音が自然に次の音にゆるやかな弧を描いてつながってくれます。
このピアノと建物と空気が、旋律を自然に歌わせてくれました。
友人がバラードNo.2を弾いているときに、私が建物内やお庭の方まで歩いていって聴いていると、あちこちでホテルの従業員の方たちも椅子に座って目をつむって聴き入っています

お仕事も休憩して気持ちよさそうに^^*
おこられないのかな~^^と思って見渡すと、チーフっぽい人も手を止めて聴いていました

そうじをしながらリズムを合わせている人もいたり。。
音楽をそっと心で楽しむ、そののどかで緩やかな空気がとても素敵だなと思いました。
![]() |
そよそよ |
そんな感じで1時間くらい2人で弾き続け、アンダンテスピアナートを弾きおえると、
気がつけば食事にやってきた白髪のおばあちゃんたちが
ぞろぞろと後ろに立っておられ、目をきらきらとさせて拍手してくださいました。
フランス語で何かだだだだーとおっしゃってくださいました。
外国の方は表情や気迫で(笑)言葉がわからなくても言いたいことがなんとなく伝わってきます。
こういう動物的?(笑)な会話は結構好きです^^
音やニュアンスで感じ取る、演奏と鑑賞の関係に似ているのかもしれません^^
おばあちゃんは大量に話されたあと

伝わった・・ということでしょうか、目をつむる表情で胸にじっと手を当てて、
そして「Merci boucoup、Thank you、 Thank you so much」と握手してくださいました。

![]() |
裏の民家に住むおじさん |
私を飛び越えて、音楽はいつも色々なものを運んでくれます。
音楽って本当にすごいなぁと、、音楽と聴く人の間にいる私が
くれぐれも邪魔をしないようにしたいなぁと・・
また原点を感じさせてもらえる出来事でした。
wrote in 19 Nov 2008 * b a c k << * t o p △


さて、Nohantへの行き方は行ってみるまでよく分からなくて・・・旅行中一番の不安でした^^*
アクセスを書いておきます

![]() |
往復の指定席を買いました。クレジットカードが使えました。
列車の時間は前の日にホテルの方にネットで調べてもらいました。
駅でサンドイッチと飲み物を買って乗車。
約2時間後、Chateauroux (シャトルー) 駅で降ります。
![]() |
![]() ![]() |
そこのインフォメーションでNohant (ノーン) 行きの時間を教えてもらい
時刻表で案内もしてもらえました。
Montluçon (モンリュソン) 行きのバスに乗り、約30分~1時間後、
Nohan-vic. (ノーンヴィーク) のNohantで下車します。
乗るときに運転手さんに確認していたので、間違えて降りそうだったのを止めてらえました。^^
バス停からサンドの館はすぐです。
もう3つ先のバス停(La Châtre)にはMusée George Sand
(ジョルジュサンド博物館) があります。
ノアンでは、6月はFêtes Romantiques de Nohant (ロマン派音楽祭)、
7月はRencontres Internationales Frédéric Chopin (ショパンフェスティバル)
(イヴ=アンリ氏監督)をしていて、コンサートがたくさんあるそうです。
過去にはマリア・ジョアン・ピリスさんやダンタイソンさんなどが出演されています。
私たちの渡欧はちょうど6月の音楽祭が始まる頃に合わせましたが、
プティファデットの宿泊がとれなかったので音楽祭の前々日に訪問でした



La ChâtreやChateaurouxに泊まるのも良いかもしれません。
![]() |
ちょっと福岡県や九州の形に似ているフランス・・・ |
Prologue
![]() |
W a r s z a w a |
![]() |
V i e n n a |
![]() |
N o h a n t |
![]() |
P a r i s |
とよく聞かれます。
どうしてなんだろう・・と考えていると
「どこが好きなの?」と次の質問もやってきます。
「う~ん。。。全部。^^」
いつも結局そんな答えしかでてこないのですが
でも人が何かを好きになる時、そういうものではないのかな、、と
思ったりもします。
良い部分も弱い部分も、全部、その人そのものですよね。
どの曲の中にもショパン独自の音があり感性があります。
習作といわれる作品や、ショパン自身出版を認めなかった遺作たち・・
出来不出来の問題ではなく、ショパンの感性が好きだから
全部好きなのです。^^
私は昔からショパンの音楽を聴くと、
「なんで知ってるの?」とよく思いました。
言葉にもできないような、複雑な心情をたくさん汲み取った音をくれる。
なんでも分かってくれる友達の根本にいつも思いやりがあるように
そんな音が生まれる所に、繊細な優しい心をたくさん感じるのです。
温かく浸透してくるものには、人は自然に共感し、自ら歩み寄り、
そして、心を開かせ、動き出す力を与えてくれます。
ショパンを通して、そんな場面や人に何度も出会うことができました。
今回はそんなショパンの見たもの、触れたものを肌で感じてみようと
ウィーン・ワルシャワ・パリ・ノアンと巡ってきました。
住んだ家の雰囲気、装飾、壁、階段の感触、家の周りの様子、
匂い、そこに住む人々、習慣・・・
時代を経ても、作品の中で感じる空気と同じものがそこにはありました。
今しか持てない感覚を大切に、その模様をお伝えしていきたいです

wrote in 12 Sep 2008 t o p △
Les maisons où Chopin habitait à Paris
すべて地下鉄や徒歩で、1~2日あれば行ける範囲です。
パリは今でも家具付きでの賃貸が多く、引越しもしやすかったのでしょう。
そんな家々を私の目線でご紹介です。
![]() | ![]() | ![]() |
![]() | ![]() | ![]() |
![]() | ![]() | ![]() |


メトロ⑧⑨Grand Boulebvar
![]() ![]() |
サクレクール モンマルトルの丘を登った所にあります。 |
![]() |
その丘全体を見渡せるアパルトマンでした。
「美しいマホガニーの家具つきの部屋の並木道にはりだしたバルコニーからは
モンマルトルからパンテオンまで見える。端から端まで、
見える景色が全部美しい。この景色を羨む人は大勢いる。階段だけは
誰も羨ましがらないけどね。」
と、ショパンはパリへの期待を膨らませます。
今はこの入り口らしきものとプレートしか残っていませんが(右写真)
ここの5階(日本の6階)に住んだそうです。
この隣のビルに入れたので、景色が見られるかな?と階段をのぼっていたら
おじさんに「Chopin?」と話しかけられました。
そのおじさんはクラシックファンなようで、
その界隈のことをたくさん説明してくださいました。フランス語でしたが・・・。^^;
想像を含む解釈では・・・
このすぐ角を曲がった所に、モーツアルトがパリ滞在時に住んだ家があるそうで、
お母さんが亡くなったのはその家だとか。。(追記*4年後に訪れる事が出来ました♫)
そういえばその出来事の様子はモーツアルトの手紙にも残っています。
あの出来事がそんなに近くであったんだと・・・
パリはヨーロッパの中心な土地なだけに、ちょっと歩いただけで様々な歴史の破片に出会いますね。。。
他にもその近くにプレイエルとリストが会ったサロン、有名な作家(名前おっしゃっていましたが忘れました・・)の家もあるそうです。
日本を発つ前、パリの地図を眺めているだけでもワルシャワやウィーンとは様子がまた違って
様々なことを感じました。
歴史で習ったような建物や、名前をよく知っている文化人の住まいが近距離に多々あるかと思えば、
血の歴史も多く立ち上ってきてちょっとクラクラしてくるような。。。
政治、文化、人種のるつぼなパリは、美しいものと胸が痛むもの・・清濁両方を強く感じ、
都会の宿命なのかと思ったりしました。
それにしても旅先での突然の会話は、思いもしない情報に出会えることも多く、出会いに感謝です。^^
おじさんの話がとまらなくなって、最後の方はちょっとだけ困りましたケド・・・(^m^)
みなさん親切です。^^
wrote in Aug 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑧⑨号線Grands Boulevards
![]() ![]() |
近くのパッサージュ(アーケード)にオテルショパンがあり訪れてみました。パッサージュには可愛い雑貨屋さんがいっぱいでした。 |
大変ということで、こちらの1階(2階)に引っ越しました。
1つ目の住居から10分も離れていない場所です。
そして今頃気が付きましたが・・・ここ訪れていません

付近はよく歩いていましたが・・・。。
と言うわけで写真はなしです。
(シテ・ベルジェール4番地というのは、現在はヴィクトリア・ホテルの一部だそうです。)
ちなみに私たちがパリで滞在したホテルはここや一つ目の住居の近くで
部屋は5階でした。 エレベーターはなしです。。。

23kgのスーツケースをガタゴト上り下り・・・大変でした

しかも合間でノアンへ行ったので、1Fの受付に預けるためまた運び・・・
帰ってきてからはさらに6階の部屋へと昇格

階段の高さはなぜか不ぞろいで、1段ずつ高かったり低かったり、
幅も狭かったり広かったり。。かなりアバウトです(笑)
リズムがとれない昇降は余計に息が切れるように感じ

部屋に着く頃にはぜぇぜぇ。。汗だくに。。
かつてのご婦人やショパンの苦労が身にしみたのでした。^^
そして、滞在中何度も往復したポワソニエール大通りは
同じようにショパンも歩いた道。
ワルシャワやウィーンと違って、パリは外国人がいても気にもとめない
都会らしい寛容と孤立を持ち、
活気のある並木道の街の音に触れながら、ショパンの心を肌で感じた気がしました。
ここの住居では、向かいのアパルトマンに詩人のハイネが住んでいて、
ショパンと交流もあったそうです。
wrote in Aug 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑦⑨Chaussée d’Antin La Fayette
![]() |
オペラ座 パリは建物、教会、道、全てが大きいです。 |
この頃、ロスチャイルド家のサロンでの演奏の評判のおかげで、ショパンにはレッスン依頼が殺到し、また楽譜出版も進み、演奏家・作曲家・教師という地位を確立していきます。
この家にはリストやメンデルスゾーン、ベルリオーズがたびたび集まり、
ピアノを弾いたり語り合ったりしていました。
エチュードop.10(「革命」や「別れの曲」など)はこの頃完成し、
リストに献呈されています。
華麗なテクニックで人を圧倒するリストの影響や当時の社交界の流行もあって
ショパンもこの時期華やかな曲を書きますが、
サロンでも控えめに微笑み、ピアノを弾くのもいつも最後で、人に譲っていたショパンは
もっと繊細で、心に染み込むようなニュアンスを持った、彼らしい音楽の道へ進んでいきます。
この3つ目と4つ目の住居は今はもう番地がないので、写真もまたまたなしです。
周辺の様子は、そうですね・・神戸で言うと三宮を大きくしたという雰囲気でしょうか。ちょっと違うかな(笑)
ギャラリーラファイエット=神戸大丸、オペラ座=神戸国際会館 ・・?^^(ローカルな話ですみません)
ちょうどそこから10分くらいの旧居留地街にショパンの家があった感じです。(笑)
wrote in Oct 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑦⑨Chaussée d’Antin La Fayette
この頃ショパンはポーランド出身の幼馴染マリアに再会、恋をし、プロポーズ、
結婚準備のため、同じ通りの38番地の広い部屋に引っ越ししました。
しかし、ショパンの体の弱さでマリアの両親の反対もあり、結局婚約は解消されてしまいます。
![]() |
ドラクロワ作 |
作家のジョルジュ・サンドと出逢っていました。
「なんて虫の好かない人だろう、あれが女性なんだろうか。」
男装してサロンを巡っていたサンドに、ショパンはそんな言葉を残しています。
サンドのほうはショパンにすぐに心惹かれ、何度もサロンに招待したりしていました。
しかしサンドの温かさに触れるうち、ゆっくりとショパンの心も変化します。
「3度あの人と会った。ピアノを弾いている間、目の中まで深く見つめるのだった。
・・・・黒く暗い燃えた瞳が僕を包んだ。私の心は奪われてしまった。
それから2度会った。・・・彼女は僕を愛している。
・・・オーロール(サンドの本名)・・・なんと美しい名前だ。」(「ショパンの手紙」アーサーヘドレイ)
その頃サンドは、ショパンの友人グシマーワに、ショパンの気持ちを尋ねる手紙を書くのですが
これが、ものすごい長文デス。本で13ページなので実際の手紙は50ページくらいなのでしょうか?^^;
内容は、自分が身を引くべきなのか、そうしなくて良いのか、と、
ショパンのことを一番に考えたとても愛情深い文章です。
また、この手紙からはショパンの奥手で誠実、慎みを持った恋愛の様子が垣間見え
とてもショパンらしいな・・と思いました。
友人談によると、今でもポーランドの男の子は情熱はあるけれどとてもシャイな子が多いそうですよ。^^
1838年の春頃から2人は急速に親しくなり、秋には世間の目を逃れるためにも、
共にマヨルカ島へと旅立ちます。
![]() |
ドラクロワ作 |
wrote in Oct 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑧⑫⑭Madelaine

16, rue Pigalle(20,Jean-Baptiste Pigalle) -- 1841.11~1842.9 --
メトロ②⑫Pigalle ⑫St. George ⑫12号線Torinité d’Etienne D’Orves
![]() ![]() | ![]() |
現在のトロンシェ5番地 ショパンの部屋は2階 (左)通り表から (右)中庭から | こちらは現在のピガール16番地 (サンドの家はジャン=バプティスト20番地) |
2人はスペインのマヨルカ島・イタリア~ノアンへの1年の旅を経てパリの新しい家へ戻ってきます。
ノアンにいる間に友人に2つの家を探してもらうように頼んでいました。
ショパンはトロンシェ、サンドの家はピガールでした。
(※追記 ピガール16番地を眺めていた私達ですが、その後サンドの家は、
現在の「ジャン=バプティスト20番地」ということが判明しました!たぶん迷いながら歩いていたあたりだと思われます・・。)
この時のショパンの希望する部屋の間取りや雰囲気は、とても細かく手紙に残っています。
「雉鳩色だが光沢のある壁紙、つやのある細い濃緑色の襞でふちどったものがよい。 玄関は何か他の色で清潔な感じで上品なものがよい。さっぱりした落ち着いた清潔なもの、だから僕は真珠色が好きなのだ。」 |
そんなちょっとした好みが同じなのは嬉しいですね

![]() |
2人は華やかな社交界と少し距離を置くようになってきていたのでした。
ショパンはサンドの家を行き来しながらもほとんどは彼女の家で過ごしていた
ため、1841年にはトロンシェの家を引き払いました。
右の写真はこの近くのロマン派美術館。サンドの遺品も展示してあります。
当時はショパンとサンドの友人宅であり、よく集まりました。
このあたりをたくさん歩きましたが、現代的な看板のあるお店などが少なく、
昔のパリを思わせるような石造りの雰囲気、少し雨の降って湿った道が
なんとも心に残っています。
written in Feb 2009 * b a c k << * t o p △

メトロ⑫Torinité d’Estienne d’Orve
![]() | ![]() | |
アパートメント全体の門 | 中庭 |
ここはロの字型のアパートメントで、芸術家が集って各部屋に住んでいました。
少し坂道になった通りにあり、セーヌ川周辺や、ピガール、ブールバールの繁華街とは違って、
周りは人通りも少なく落ち着いた雰囲気でした。
![]() |
ショパンのプレート |
そこがショパンが住んだ棟です。
カルクブレンナーというピアニストやショパンの葬儀でも歌った歌手のポリーヌヴィアルド夫人、他にも作曲家や彫刻家、作家、そしてジョルジュサンドも、中庭の噴水を挟んでショパンと対角の場所に部屋を借りていました。
芸術家の住むアパート。なんだか楽しそうですね・・^^
![]() |
![]() |
ショパンの部屋のドア |
「そこは入れないわよ!!」といったことを言われます。(想像)
今は普通の住居やオフィスなので入ることはできないみたいです。
中庭を一周したあとまた眺めていると、お兄さんがやって来ました。
そして、ショパンの棟へ入っていきます。
「いいな~


「入りなよ♪」という風なジェスチャーをしてくれています!?
お兄さんがショパンに見えました


というわけで、お兄さんの案内で入れてしまいました


棟の入り口のドアを開けるとすぐに階段。
そこを上った右側がショパンの部屋だったそうです。
約150年前の建物があちこちにそのまま残っていると言うのは
木造でないヨーロッパならではですね。

ここからも毎年夏にはノアンを訪れていたショパンとサンドですが、
2人が別れを迎えるのもこの住居にいる時でした。
そしてその後の過酷なイギリス滞在からやっとの思いで帰って来たのも
この住居です。
ショパンにとってはとても思い出深い住まいだったことでしょう。
イギリスから戻ってきたショパンは友人たちのたくさんの見舞いを受け、
支えられながら、これまでの音楽観をまとめようと、教則本を書き始めます。
written in Aug 2008 t o p △

メトロ⑥⑨Trocadéro
![]() |
シャイヨーの丘からの眺め |
シャイヨーは、資料に「パリ郊外」と書いてあったため、どこかよくわかりませんでした。
ホテルの人に聞くと、エッフェル塔の近くのシャイヨー宮を指差します。
あまりに近いので、そこではないと思っていたのですが、帰ってきてからそこだということが判りました。
昔、パリは今より小さな区域を指し、シャイヨーは「郊外」とされていたみたいです。
今は地下鉄があるのですぐですが、当時は馬車ですしね・・
たまたまエッフェル塔も訪れたので、この8番目の家付近も訪れることができていたのでした。

(現在は、もう建物も区画もありません。)
ショパンはスクワールドルレアンの家も残したまま、このシャイヨーの丘に別荘のような形で借りていました。
来訪者も多かったり、パリではコレラが流行していたりで、
少しでも落ち着いた場所に身を移そうということでした。(エッフェル塔は当時はまだありません。)
![]() |
「来られるなら、どうか来て下さい。」
ショパンの珍しいくらいの必死の訴えが続きます。
「なぜこんなにルドヴィカに会いたいのか自分でもわかりません・・・」
死期を悟り始めたショパンは手紙で懇願したのでした。
前回のパリ&ノアン以来の、5年ぶりの再会でした。
閉鎖された国境を越える通行証をとること、夫の仕事・体裁・・・
当時彼女が西ヨーロッパへやって来ることは簡単なことではありませんでした。
「葬送」に出てくるこの再会のシーンはとてもとても、印象的・・です。



サンドと別れた後、ショパンはイギリスに渡り、慣れない生活とコンサートの毎日、
体調はみるみるうちに悪化してしまいました。
5年前とは随分変わり果て、衰弱してしまったショパンを目にした時、
ルドヴィカはどんな気持ちだったことでしょう。。。
彼女は予定を変えてポーランドに戻らず、献身的に看病し続けました。
ショパンの手紙は、この住居で書いた9月17日のフランコム(友人チェリスト)宛のものが
絶筆となりました。
written in Feb 2009 t o p △

メトロ③⑦⑧Opera、①Tuilerie、①⑧⑫Concordo
![]() |
最期を感じ取った周囲の人が、医師や訪問者が訪れやすいように、また、南向きの居心地の良い部屋が良いと勧め、
パリ内へ戻ってきたのでした。
ショパンは17歳の時に妹エミリアを病気でなくしています。
エミリアが亡くなるまでの様子・・・ヒルによる治療、衰弱・・・
それは目を覆うほどにすさまじいものでした。
ショパンも当時から体が弱く、同じように血を吐いたりしながら、常に「死」を身近に生きてきました。
彼女の様子は、そのまま「自分もそうなる・・」という記憶として、生涯抱えていたことでしょう。
エミリアは、若くも聡明で達観した精神を持ち、芸術的才能にも恵まれていたそうです。
ショパンの亡くなる22年前・・・14歳で死を迎えたエミリアが残した詩があります。
死ぬことは私の天命 死は少しも怖くないけれど 怖いのはあなたの記憶の中で死んでしまうこと この地上、人の運命(さだめ)のなんと哀しいこと 苦しんで、また隣人の苦しみを増やすとは |
「決定版 ショパンの生涯」 ルバラ スモレンスカ=ジェリンスカ 著 |
![]() ![]() |
お母さんよりも、お姉さんよりも早く亡くなってしまったショパン。
家族想いだったショパンもきっと、最期は、隣にいる人、遠くにいる人、
その人達の哀しみを想っていたでしょう。。
ショパンの音楽が、心にすっと入ってくるのは、そんな気持ち、、、
彼自身の想いだけでなく、いつも、
自分以外の人の心を想い、その心の位置で、音・・感情が生まれていたからなのではないかと・・・
ショパンの音を弾いていて、そんな風に思います。
![]() |
今までで一番豪華な造りでした。
最期の住居。
この部屋を手配した人の、「作曲家ショパン」への敬意を感じました。
![]() |
wrote in Apr 2009 t o p △
Scène de la musique à Varsovie

ぶれぶれですみません![]() |
ここはヴィジトゥキ教会です。
ミサの途中ポーランド語の歌もあって、言葉がとてもきれいでした。
子音のすれるような音はちょっと鳥がしゃべる音に似ているように感じます。
耳にとても心地よくて、好きです。

マズルカを弾いていても、装飾音や和音の重なり方がこの言語と同じように響いてきこえます。
外国語は音楽を聴いているようで楽しいです。
鳥の声のような音をずっと聴いていると、脳がすっきりして血がサラサラになる感じがします

ポーランド語などもそれに近いものを感じ、滞在中ずっとそんな音に囲まれていたため・・・
実は成田に帰ってきて一番に感じたのは、頭の中に響いてくる響きが低い


調べてみると、日本語の周波数はとても低くせまいそうです。
日本語 | 125~~~1500ヘルツ |
中国語 | 500~~~~~~3000ヘルツ |
ロシア語 | 125~~~~~~~~~~~~~~~~~8000ヘルツ |
ドイツ語 | 125~~~~~~~3000ヘルツ |
フランス語 | 1000~~2000ヘルツ |
イタリア語 | 2000~~4000ヘルツ |
英語 | 2000~~~~~~~~~~~~~~~~12000ヘルツ |
米語 | 750~~~~~~~~~5000ヘルツ |
ポーランド語はドイツとロシアの間くらいではないでしょうか。
これを見ると、日本の音楽が、頭の中でコロコロというよりも、おなかに響いてくる・・
その理由がわかる気がしますね^^
さて、なぜこんなに近距離で聴いているのかといいますと・・
こんな出来事がありました。
wrote in 13 July 2008 * b a c k << * t o p △


ワルシャワについて、ホテルに荷物を置いた後、
まずは聖十字架教会でショパンの心臓にあいさつをして^^
そのあと夜のコンサートまで、サスキ公園へお散歩・・・のつもりが
ちょっと立ち寄ったヴィジトゥキ教会に長居することになりました。
この教会はミサ時以外はドアに鍵がかかっていて
他の教会とは違って中まで入れなかったことが多く、前回も1度しか入れませんでした。
でもこの時ちょうどミサ中だったので、幸運にもまた入ることができたのです

ここはショパンがオルガンを弾いた教会です。
この教会は幸運にも戦争で破壊されなかったため、内部の装飾は当時のままだそうです。
ショパンはワルシャワ高等学校の時(15歳)オルガニストに指名され、毎週日曜日に弾いていました。
このオルガンは当時から変わらず残っているもので、パイプはとりかえられましたが、
2~3本は当時のままのパイプだそうです。
2年ぶりのヴィジトキ^^ 聖堂後方で正面の絵を眺めながら立っていました。
この絵のマリア様は水色の服を着ていて、それがとてもきれいで、以前からお気に入りでした。
そうしていると、シスターが通りかかり、脇のベンチに座り、私たちに手招きをします。
絵を見ていたいな・・と思いつつも、せっかくのご好意なので座りに行くことにしました。^^*
そこからはちょうど、上のバルコニーとオルガンのパイプが見えました。
すると・・・ミサ中、バルコニーのオルガニストさんがなぜか立ち上がり、私たちを見つけると
上から手招きして「(ここへおいで)」と言っているようです。
?!?!?

私は実は2年前から、次にワルシャワにいけたら、この教会のショパンの弾いたオルガンを
弾いてみたいな・・バルコニーのオルガンを見学できたらいいな・・・と思っていました。
それでこの日この時、教会に入れたけれど、ミサ中なのでだめだなぁ・・まぁいっか・・・
と思っていたところだったのです。
突然の展開にびっくりしつつ、オルガニストのおじいさんが示した教会後方にあるドアをあけると、
古い木の螺旋階段がありました。
木目も見える黒ずんだその階段は、角がもう丸くなっています。
そうして、暗く狭いその階段を昇り始めようと、ウキウキと階段に足が触れた瞬間、
私の目からは突然、大粒の涙がでてきてしまいました。
すごくすごく柔らかく優しい、澄んだ心のようなものが、体を通り抜けたように感じたのです。
うれしいのでも悲しいのでもなく、それはあまりにもきれいで優しい感触で。。
思いやりのかたまり、とでもいいましょうか。。
そしてそれは、時折、ショパンの音楽の中で感じる感覚と似ていて、
「ショパンだ。。ショパンがここへ運んでくれたのかな。。」 と、、、
おかしな話のようだけれど、この時、本当にそう思って、その温かな心のようなものに
涙が止まらなくなりました。
昇りきると、先ほどのオルガニスト、タデウシュさんがやさしい微笑と握手で迎えて下さり、
それはまるで親戚のおじいちゃんのような、とても温かい空気でした。
私たちはとにかく「ジェンクイエン(ありがとう)」と何度も言っていました。
今から考えると、階段を昇ってきたアジア人が急に泣き顔になっているのです。
とてもおかしなことですが、タデウシュさんは全て解っているかのように
「ショパン・・・」とだけ声をかけてくださいました。
ミサが終わると、「どうぞ弾いてみてください」とオルガンを弾かせていただけました。
下ではお祈りしている人がまだまだいる中、Mozartのアヴェ・ヴェルム・コルプスを弾くと
タデウシュさんが合わせて歌ってくださいました。
天井に近い場所から音を発する。。。
音が降っていくのが見えるような、とても不思議な感覚でした。
階段を昇りタデウシュさんに「Chopin ・・・ 」と声をかけられるまで、
私、友人、シスター、タデウシュさん、その4人の間で
言葉ひとつ交わさなかったこの一連の出来事は、
私たちにとても大きな感動を与えました。
教会を通りかかった時間と、シスターが通ったこと、私たちがベンチに座った時がちょうど
奏楽の間であったこと・・・
すべてほんの数秒のタイミングの出来事で、それがずれていたら
起こらなかった事でした。
そしてその数秒は、シスターたちの無言の気づき・導きによってさらに次へ繋がったこと。。。
感謝がとても生まれました。
シスターはその後すぐに消え、ただの「パイプ」であっただけ・・・
神様に遣えるとは、このようなことだと思いました。
私は特に宗教はしていないけれど、
いつも自分を見ている、何か目に見えない大きなものは存在すると思っています。
そういうものへの感謝は、不安や不満から自分を遠ざけ、
そんなことよりも
今自分にできることをさせていただこうという心を与えてくれます。
シスターやタデウシュさんのように、無心に、無言で。。
シスターにお礼を言えなかったのが心残りですが
彼女の姿はきらきらと、心に残っています。
ショパンを巡る旅では、いつも何かこんな偶然のプレゼントがやってきます。
あたたかなショパンとの出逢い。
私の場合は、この教会でした。
wrote in 9 August 2008 * b a c k << * t o p △


![]() |
アルゲリッチやブーニン、ツィメルマン、アシュケナージ、現在名前を聞くほとんどのピアニストは、このワルシャワでのショパンコンクールをきっかけに世界での活動が始まりました。
このコンクールが他のコンクールと違うのは、”ショパンに忠実に・・”を伝統として譲らないこと、と言われています。
審査方法については賛否両論あるそうなのですが、ショパンの思っていた音楽や信念が残ってほしいですし、これからもこのままの理念で審査されるといいなと・・思います。^^
"葬送"にでてくるショパンのセリフにこんなものがあります。
(死期が近づくのを感じる病床で・・・) 「一人死ぬ度に彼らばかりでなくその技術までもが道連れにされてしまうという分かりきった事実が、彼の心を強く打った。自分が死ねば、失われるのは決してこのからだばかりではない。音楽もだ。彼の無念はまさしくそのことであった。誰も自分の演奏したようにはピアノを弾かないだろう。自分の演奏が、その死の瞬間、この世から一切消えてなくなってしまうのだ。ああ、なんということだろう!まだ音符として姿を現していない数多の曲がある。それらすべてがこの命とともに消えてなくなるのだ。僕は思っていたよりもずっと音楽そのものだった。僕こそが音楽だった。」 「僕が死ねば、・・・・僕はあるいは僕の作品となるのかもしれない。そこから零れ落ちた僕を拾い集めてくれる人はいないだろう。----それでも構わないんだ。だけど、例えば君(ドラクロワ)の絵が、君がいなくなったとしてもずっとそのままの姿で残っていくのと違って、音楽はさまざまに演奏者の手が加わって、きっと百年後には僕が考えていたのとは似ても似つかないような姿になっているだろう。現に今でさえ、僕の目の届かないところではそんな風に演奏されている。モーツアルトにしたって、カミーユ・プレイエルのように巧みに演奏できる人は今では本当に稀だから。・・・・そうして僕が、音楽の姿でしかこの世界に残っていかないのだとするならば、それは結局僕自身が時間の中で変容していくということなのではないか。・・・・」 ( ----は省略部分。) |
(平野啓一郎「葬送」第2巻下より 新潮文庫 ) |
ポーランドの先生たちが、美しい音で、わざとらしくなく自然に、感傷的にならないで、気品をもって・・・と、
ショパンのスタイルを大事にしているのは、音楽が素晴らしいからだけでなく、
ただ、ショパンそのものの存在を大事にしたいからだとも感じます。
それは、自分の亡くなった家族の一人の痕跡を大事にするように。。。
良い面も、弱い面も含めて、○○ならこうする、○○ならこういう風に考える・・
そんな風にとらえると、すごく良い違いであったとしても、
本人とは違うように語り継がれていくようなことは、とても寂しいことだと・・分かります。
そんな心の近さ・・・自分が触れ合う人を家族と同様に考えるような心の距離は、
とてもポーランドらしいようにも思います。
2年前、ポーランドに行ってから私自身一番変化したように感じるのは、実は”心臓の感覚”なのです。。^^
ショパンの心臓の眠る柱に会ったからなのでしょうか?^^
それ以来、心臓で色々なものを感じる感触がわかりやすくなりました。
開いたり熱くなったりあたたかくなったり痛くなったり・・・
”心の交流”という言葉がありますが、まさにそれが、実際目に見えるように意識に上り、
それは音楽面だけでなく、私にとってとても貴重な気づきだったと思います。
![]() |
さてさて、そんなショパンが演奏しつくされている歴史的なこのホールにおいて、
今回卒業演奏会に出演する山本貴志君がご招待して下さり、音楽を聴くことができました。
心が全開な演奏で、こちらも全開になります。^^
このホールは小さい頃テレビのショパンコンクールの特集を母がビデオに撮ってくれて、
私はまだ特に興味があった訳ではありませんでしたが、何度か流してはいつもこのパイプオルガンや舞台袖の階段の下に何があるんだろう・・・と想ったり^^ なんとなく眺めていました^^
なので目の前にある舞台がとても不思議で・・・過去の自分を同時に感じるようでした^^
wrote in 7 July 2008 * b a c k << * t o p △


初夏から秋にかけて、日曜日のお昼と夕方のワジェンキ公園では
ショパンの曲ばかりのピアノのコンサートが開かれていて、誰でもいくことができます。
ワルシャワ滞在中は真夏日ばかりでとても強い日差し。
コンサートの間ずっと日なたで聴いていたので軽く日射病?になりながらも
風や鳥の声と一緒にピアノの音を楽しみました。
聴いている人たちを見ているのもなんだか幸せでした。
ヨーロッパはクラシックのコンサートを楽しむ事が
日常に普通に取り入れられているような感じを受けます。
公園でもコンサートホールでも、有名な曲でもそうでない曲でも、
それぞれ感じ入り、みんなリラックスして楽しんで聴いている様子が伝わってきます。
![]() ![]() |
鴨も聴いています^^ |
![]() ![]() |
wrote in June 2008 * b a c k << * t o p △
Paysage de VARSOVIE
ショパンのワルシャワでの住居は前回のレポートをご覧ください。

![]() |
14~19世紀の美しい建物が立ち並びます。
それらは第二次世界大戦でほとんどが破壊されてしまいました。
市民の人たちは後に再建するために、その戦火の中デッサン
しつづけ、現在の建物はすべて、それらや戦前の写真・絵画を元に、
色や装飾、ひびの1本1本まで再現されたものだそうです。
その市民の努力と想いの功績が世界遺産登録へとつながりました。
前回は真冬のワルシャワでとても風情があり、
重い空も、「ワルシャワらしい」感じを受けていたのもあって
今回、とても明るい風景に・・・ すごーく暗かった友達が急に明るくなったかのようで・・笑
初日はなんだか戸惑っていました^^
日差しが明るいし雪の湿気もないので、壁の色も全く違って見えるのです。^^
でも、雪の時はこけないように下ばかり見て歩いていたので
今回色々な模様や絵画、日時計のある壁・・・新たな発見がたくさんあり
冬を感じたからこそ、この初夏の空気がとても貴重に思え、冬も春も、それぞれの良さがありました。
![]() ![]() ![]() ↑広場入り口に日時計や彫刻 ![]() ![]() ![]() |
旧市街の奥の新市街はとても静かで穏やかな空間でした。
空気の流れがゆったりしているので、またまた歩くのが遅くなります。
昔の人の歩く速度はこれくらいだったのでしょうか?^^ ここもふわふわ綿毛が飛んでいました。
![]() | ![]() ![]() |
街中の木々 & オープンカフェ & 窓辺の5羽 |
![]() |
かわいい窓やランプ |
![]() | ![]() ![]() |
教会の門 & 壁の装飾画 & 新市街付近。今も再建は続きます。 |
![]() |
ショパンも訪れたレストラン”ホノラトカ”@旧市街近く |
滞在中、留学中の友達が色々おいしい所へ連れて行ってくれました。
留学生活も最初は大変だったみたいでよく泣いていたとか・・・^^。
他の子たちも2年前会った時よりもみんな大人っぽくなってました^^
ワルシャワの留学生たちはみんなすごく協力しあっているのがとても伝わってきます。
「自分が大変だったときにみんながすごく助けてくれたから、私も誰かにそうしてあげたいって
すごく思うようになった・・・」
去年くらいにそう言っていた彼女も今年で卒業です

今回私の渡欧前も、数ヶ月前から直前までレッスンをどうするかや宿泊などなど色々と気を配ってくれました。ほんとにありがとー

wrote in June 2008 * b a c k << * t o p △


![]() |
緑の中のショパン。シマノフスキの叔父さんの作品。 |
ワジェンキ公園にやってきました。
青々とした草木、森に響く鳥のさえずり、思い思いにくつろぐたくさんの人々・・冬と全然違います^^
気持ちの良い空気の中、ショパン像前でのコンサートが始まるまで1時間ほどお散歩しました。
この公園内の宮殿にたくさんの浴場(ワジェンキ)があったため、ワジェンキ公園と呼ばれます。
森にはたくさんの綿毛が飛んでいました。どの木から飛んでいるのかよく分かりません。。
森の中に舞うたくさんの綿毛は、まるで水中に漂う泡を見ているようで

森全体が水の中にあるような居心地でした。歩くのも自然にゆっくりになります。AndanteSpianatoです^^
とてもとても美しく、心身ともにふわ~~っとなれました^^
動画では10分の1も見えないのですが

こちらは鳥のさえずりを撮ってみました。
ヨーロッパ滞在中、どこにいても鳥の声が聞こえました。
鳥の声はピアノの高音とよく似ていて、とても耳に心地よいです。
森の中で鳥にえさをあげているおばあさんに出会いました。
おばさんの口笛で鳥が飛んできます。
![]() |
ワジェンキ宮。水に浮かんでいるようです。 |
![]() |
![]() |
公園にはリスや孔雀、白鳥が住んでいます。 |
![]() |
立派な鳴き声でした。 |
冬の雪景色もきれいでしたが、夏の緑の森はとても清々しくて
今回の旅行で訪れた場所で一番好きな場所でした。
帰国してから、ポーランドの音楽を聴いていて幸せな音がすると、この森の空気と重なります。
1766~96年にポーランド最後の王によって作られた公園なのでショパンも訪れたことでしょう。
ここの空気のような音楽をお届けできると理想です。
wrote in June 2008 * b a c k << * t o p △


ワルシャワ最終日の夜、街を歩いていると、いつもと違う空気を感じました。
![]() |
とてもとても静か。。。 人は前日までのようにいっぱいいるのに、
不思議な静けさが漂っていて周りを見渡しました。
時の流れが止まったような、暑くも寒くもなく、ほわんとした何かに街が包まれているような・・
不思議な空気です。。
日は暮れて、これから夜になるというぼんやり明るい幻想的な空でした。
友人と「これは一体なに???」と言いあいながら、
旧市街の方へずっと歩いていってみると、21時過ぎた時間でしたが聖アンナ教会でミサが行われていました。
たくさんの人が教会からあふれていて、外でも参列しています。
![]() |
何のミサだったのかよく分かりませんでしたが、この夜の不思議な空気はとても印象的で
体験したことのない、忘れられない”静寂”の感触となりました。
![]() |
wrote in June 2008 * b a c k << * t o p △
Cimetière du Père Lachaise
![]() |
白と優しい紫は私のなんとなくなショパンのイメージです。 黄色は幼少期の陽気なショパン。ピンクは19歳くらい^^ |
心臓はポーランドへと帰りましたが、体はパリで葬られました。
エディット・ピアフなども眠るペール・ラシューズ墓地にあります。
入り口にお花屋さんがあったので、買っていきました。
身近なお方とはいえ・・・
親戚や直接の知り合いでない方のお墓にお花をたむけるのは初めてで
なんだかどきどき・・お花を選ぶ時間は真剣でした^^
白いお花と・・きれいな紫がなかったので青いお花。
ちょっと暗いので黄色とピンクを足してできあがりです。
感謝がいっぱいのショパンにお花を持っていけることはとても幸せでした。
![]() |
フランスのお墓はこんな感じ。ウィーンとちょっと違ってみんな背の高い家のようで芸術的でした。
広い園内をぐるぐる、、地球の歩き方にのっていた地図は大まかで場所がよく分かりません。
するとある女性が「chopin?」と突然話しかけてくれて、教えてくれ、20分後くらいに無事たどりつけました。
まず視界に入ってきたのは、たくさんのお花・・・
![]() |
ショパンのお墓だけお花がいっぱい・・という話はよく聞いていましたが、実際目にして、
こんなにもたくさんの人に愛されているんだということを実感し、とても胸が熱くなりました・・

ポーランドの国旗にちなんだ赤と白のお花、いつまでも枯れないように鉢植えのお花や
造花もたくさんありました。
そして、枯れたお花がなかったということは、誰かが掃除もしているのでしょう。。
ちょうど空いた花瓶が2つあったので、友人と水を汲みに行き、また戻り供えてきました。
ショパンのお墓に来て、ショパンを感じるのかと思っていましたが、
そこで出会ったのはショパンを愛する世界中の人々の想いでした。
1年中たくさんのお花の絶えない、、こんなお墓があるでしょうか。。
それぞれ個人とショパンとの特別な絆を感じるような、とても印象的な風景で
友人と2人、しばらく立ちつくしていました。
![]() |
大好きなショパンがみんなに愛されていて、とても嬉しく、、
そして、みんなの”ありがとう”が詰まったようなその場の空気に、
人々の心にそんな気持ちを持たせることができること・・
それほど偉大なことはないと感じました。
帰りに道には画家のドラクロワさんのお墓も訪ねました。ショパンの親友です。
![]() |
彼らしく真っ黒なお墓で、思わず笑ってしまいました。^^
お花がなくてかわいそう・・^^* 買っておけばよかったです^^
wrote in June 2008
Epilogue
今回はショパンの家をめぐって3カ国周りましたが、
やはりどの土地に居てもポーランドに心が飛んでしまいました。
ウィーンもパリもとても壮麗で魅力的な街です。
ノアンも、広大な自然の中、サンドの手の行き届いた館があり
すばらしい土地でした。
それぞれショパンゆかりの地であり、住んだ家があることに変わりはないのですが
でも、なぜかいつもショパンは少し遠く感じられました。
たくさんの彼の家、たくさんの友人の家、身の回りの品々、よく歩いた道、階段・・
ワルシャワよりも地に足のついたようなショパンの生活を感じるのに・・不思議でした。
でも今から思うと、それこそショパンのように思いました。
周りにある華やかな色々なものを押しのけて、主張してくる人でないのです。。
彼の品格や優しさは、じわじわと暖かい灯のようです。
もし、ショパンに本音を語ってもらおうと思ったら、こちら側も思いやりがいるし
余計なもののない素直な心や、素朴でありながら洗練された環境がいる・・
旅を通して、そんな風に感じました。
そして、「ショパンらしさ」、それはやはり、ポーランドにいるときや
何より、音楽の中において、一番感じられるように思いました。
祈りの静けさで、時が止まったかのようなある夜の独特な空気、
ワジェンキ公園の森に無数に舞う綿の、水中にいるかのような幻想的な風景、
ショパンの音楽を聴きに公園に集まり静かに聴き入るたくさんの人々。。
祈り、感謝、許し、穏やか、朗らか、真実、優美、素朴、自然・・・
言葉で表現するのは難しいのですが
今回も、そんなとても不思議で神秘的な空気が
ワルシャワにはたくさんあるように感じました。
複雑な傷を負った歴史がその空気を作っているのか、
何なのかはよくわかりません。
でも、ワルシャワにいると、人にとって大切なもの、
そういうものがスッと前へ出てくる気がします。
家族が生きているだけで幸せ、食べられることの幸せ、歌い踊れることの幸せ、
そういう素朴な幸せを感じ続けてきた国だからでしょうか。
短い夏を楽しむ公園や街なかの人々・草木を思い返すと
音楽の中に出てくる喜びの旋律が、一層輝きました。
やはりどの土地に居てもポーランドに心が飛んでしまいました。
ウィーンもパリもとても壮麗で魅力的な街です。
ノアンも、広大な自然の中、サンドの手の行き届いた館があり
すばらしい土地でした。
それぞれショパンゆかりの地であり、住んだ家があることに変わりはないのですが
でも、なぜかいつもショパンは少し遠く感じられました。
たくさんの彼の家、たくさんの友人の家、身の回りの品々、よく歩いた道、階段・・
ワルシャワよりも地に足のついたようなショパンの生活を感じるのに・・不思議でした。
でも今から思うと、それこそショパンのように思いました。
周りにある華やかな色々なものを押しのけて、主張してくる人でないのです。。
彼の品格や優しさは、じわじわと暖かい灯のようです。
![]() |
ショパンもよく訪れたレストラン ”ホノラトカ” |
![]() |
静かな夜 |
![]() |
ワジェンキ公園 |
余計なもののない素直な心や、素朴でありながら洗練された環境がいる・・
旅を通して、そんな風に感じました。
そして、「ショパンらしさ」、それはやはり、ポーランドにいるときや
何より、音楽の中において、一番感じられるように思いました。
祈りの静けさで、時が止まったかのようなある夜の独特な空気、
ワジェンキ公園の森に無数に舞う綿の、水中にいるかのような幻想的な風景、
ショパンの音楽を聴きに公園に集まり静かに聴き入るたくさんの人々。。
祈り、感謝、許し、穏やか、朗らか、真実、優美、素朴、自然・・・
言葉で表現するのは難しいのですが
今回も、そんなとても不思議で神秘的な空気が
ワルシャワにはたくさんあるように感じました。
複雑な傷を負った歴史がその空気を作っているのか、
何なのかはよくわかりません。
でも、ワルシャワにいると、人にとって大切なもの、
そういうものがスッと前へ出てくる気がします。
家族が生きているだけで幸せ、食べられることの幸せ、歌い踊れることの幸せ、
そういう素朴な幸せを感じ続けてきた国だからでしょうか。
短い夏を楽しむ公園や街なかの人々・草木を思い返すと
音楽の中に出てくる喜びの旋律が、一層輝きました。
written in June 2008
Phrase >> Śladami Chopina >> Epilogue エピローグ