Wiedeń * Vienna
* 1st day | シュテファン寺院 ~ フィガロハウス ~ ウィーン国立歌劇場 | * |
* 2nd day | 中央墓地 ~ カール教会 ~ シェーンブルン宮殿(宮殿・CAFFE・コンサート) | * |
* 3rd day * | 美術史博物館 ~ ホーフブルク ~ シシィ博物館 ~ ベートーヴェンハウス ~ ヴォティーフ教会 ~ シュテファン寺院 | * * |
* departure day | ウィーン川 | * |
1日目
「なおちゃん



と、ウィーン空港で泣きながらみんなと握手していた私に言った友の言葉で始まった1人ウィーンの旅。
ウィーンで会う予定だった友人は私がポーにいる間におばあちゃんが危篤で日本へ帰ってしまったのです。
ゲートを出て、とりあえずトイレにスーツケースごと30分ほど引きこもって作戦タイム。。
ホテルに到着するまでの電車では不安と寂しさとポーへの郷愁で泣く。。。

日本でもポーでのセミナー中も、プランを立てる時間が結局なかったので、
お気楽ぷらぷらな3日間となりましたが今では良い思い出

wrote in April 2007

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この教会はかつてショパンも訪れた教会で、ウィーンの真ん中にあります。
セミナーのみんなとは空港で別れ、1人でウィーンに出て
私は即効ワルシャワが恋しくなってしまいました。
窓から見える風景がちがう、空が違う。。
「国」は建物に表れるのを感じ、寂しさを感じる中、無性に教会へ行きたくなり、ホテルについてすぐにシュテファンへやってきました。
「教会」という場所だけは、国が違っても世界どこでも繋がっているような気がしたのでした。
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1830年のウィーン滞在中のショパンは、彼の人生ではかなりの激情を抱えた特別な時期であり、その時期の手紙も曲も激しい悲しみや寂しさが表れています。
クリスマスの夜にシュテファンに立ち寄ったショパンも、祖国と繋がりを求めて教会にいたのかも・・と思いました。(この日のショパンの様子は日記にて)
それは私のその日の「寂しい」とは比べものにならない大きな感情だったことでしょう。。。
教会はすごく豪華でびっくりしました。ポーの教会とまた全然違う細かい装飾。
そして、祈りの場という雰囲気ではなく観光地となっていて、人はたくさんいるけれどお祈りしている人がほとんどいない所もポーとは違うなぁ。。と感じながら1時間ほど滞在しました。
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ここの教会には偶然ウィーン滞在最終日の夜にも通りかかってミサに参加したので、
最初も最後もここで過ごすことになりました。
ミサはさすがに人がいっぱいでした。
最終日は誰とも話していなかったのもあって、
ミサで周りの人に会釈する場面ではなんだかほっとすることができました。
* topへ * wrote in June 2006

モーツアルトが3年(1784~87年)住んだ、"フィガロの結婚"を作曲した家で
今は博物館となっています。
シュテファン寺院のすぐ裏、歩いて5分くらいですが、だいぶ迷いました。
写真を撮るのは忘れてしまいました。
私は博物館よりも、そのアパートメント自体が印象に残っています。
そんなに広くない普通の部屋。階段もごく普通の幅。
本当にごくごく普通のマンションという感じでした。
ここも数ヶ国語(日本語あり)のガイドプレーヤーを貸してもらえ、それを聴きながら歩きました。
* topへ * wrote in sep 2007

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未計画な行動だったので スーパーの袋持ったままです ![]() クロークで預かってもらえました(笑) |
モーツアルトの格好をしたダフ屋さんに話しかけられました。
最初は観るつもりはなかったのですが、フィデリオだったし良い席だったので、
交渉して少し安くゲット♪
オペラを観ることになりました。
しかしこれまたあらすじを3行くらいしか覚えていない。。
今度は席の前に英語の字幕が出るけれど、読みながら聴くのは疲れてきてとうとう読まなくなりました

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オケでこんな演奏を聴いたのは初めてでした。
ソロのように音の表現密度が濃いのです!
あのような演奏は、団員の1人1人がソリストとして通用するくらいでなければでてこない音ではないでしょうか。
全ての楽器、旋律が音楽的でした

素晴らしい演奏者各個人が持つ音楽がそれぞれ自由に歌われ、その自然な呼吸が結集されているように感じました。
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5回目くらいの拍手です![]() ![]() |
途中に挿入されるオケのみの20分ほどの序曲は大感動な演奏で、
細かい物語が分からなくても


隣に座っていたウィーン人のおじちゃんは、30年前に日本に来たらしく、
上機嫌によくしゃべる方で、休憩時間も楽しく過ごせました。
彼は終演後感動して号泣していらっしゃり

そんな事情で、初日から23時過ぎのウィーンの街を30分ほど1人歩いてかえることになりました

風が吹いていたのでワルシャワよりも凍えるほど寒かったですが、無事ホテルまで辿り着けました。
* topへ * wrote in June 2006
2日目、ホテルの朝ごはんを食べながらその日の計画をなんとなく立て、
午前中は中央墓地へ、午後はシェーンブルンへ行く事にしました。
ちなみに滞在したホテルはRennwegという駅にあった
Artisというアメリカンスタイル(日本のビジネスホテルのような感じ)のホテルで、
空港からSバーンで20分くらい、Sバーンでミッテ駅まで5分くらい、リングへはトラムを利用して5分くらいなど便利な場所でした。
日本からネットで予約して決済もすませ、プリントアウトした紙切れ1枚をもって行くだけだったので不安もありましたが大丈夫でした♪
フロントのお姉さんはいつも親切で電車の路線や時刻や周り方など色々と教えてくださいました。
墓地へは、「中央墓地」という名の駅(Zentralfriedhof)の2つ目(Zweite Tor)で降りると便利といわれました。
ホテル近くのトラムの駅(Renweg)から20分くらいでした。
* topへ * wrote in April 2007

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ここにはベートーヴェン、シューベルト、シュトラウス(父&子)、ブラームス、グルックのお墓と
モーツアルトの記念碑があります。
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ベートーベンのお墓 | モーツアルトの記念碑。モーツアルトは遺体が不明なのでお墓はありません。 | シューベルトのお墓。 白鳥の彫刻があります。 |
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シュトラウス(子)、ブラームスのお墓 | 普通の方のお墓はこのような感じです。 おじゃましました~。 |
作曲家が集まっておしゃべりしているかのように
モーツアルトの記念碑を囲むようにこれらのお墓がありました。
ここには、その後の数々の音楽家も訪れたことでしょうから
そう思うと感慨深いものがありました。
お墓に行くと、少しその作曲家と近づけ、挨拶できたような気分になります。
またゆっくり行きたいです。
* topへ * wrote in oct 2007

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トラムにまた乗り、Uバーンに乗り換える駅まで行く途中、きれいな教会の屋根が見えたので降りて歩く事に。
行ってみるとカール教会で、ウィーンでもっとも美しいといわれるバロック教会だそう。
天井まで鉄の棒で組み立てられたエレベーターが設置してあって
天井のフレスコ画が間近で見れました。
近くで見るととっても大きな絵。
描く人は全体バランスをどうやってみながら描いたんだろうと・・
かけられた時間の多さを感じました。
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隅に見えるものがエレベーター | |
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パイプオルガン |
* topへ * wrote in sep 2007

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駅の周辺で「入り口はどこ?」と6人連れの方々に尋ねられました。
もちろんわかりません(笑)
私もうろうろしていると、「こっちみたいだよ」と結局連れて行ってもらうことになり、1日共にする事となりました♪
スペインから(3人)とブラジルからのご一行さんで、彼らもホテルで知り合ったそう。話し相手ができてよかったです♪チケットを一緒に買ってくれたり、安くなるよう交渉してくれたりもしました(^m^)
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ここはワルツが踊られていた踊りの間です。
部屋には大きな絵画もたくさんあって、マリーアントワネットとモーツアルトの幼い頃のものもありました。
この後は夜のコンサートの時間まで彼らと別行動をすることにし、グロリエッテ前までやお庭を歩き周りました。
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時計 | グロリエッテ | 庭園 |
宮殿前の庭園は1周すると歩いて2時間くらいかかるでしょうか。
温室や日本庭園もありました。春や夏はさらにキレイでしょうね♪
もう1度行きたいです。
その後は近くのビアハウスで食事をし、シュトラウスのCAFFEへ。
* topへ * wrote in April 2007
3日目

![]() | 陶器の暖房器具![]() この中に炭を入れて部屋が暖められます。 |
オーストリア国内では浪費などで批難を浴びていた彼女ですが、ハンガリーでは慈善事業に取り組み国民に慕われていたそうです。
このとき私は彼女についてほとんど知識がありませんでしたが
博物館の案内プレーヤーで彼女の心の声をきいていると、
献身的で慈愛のある人間らしい女性であるように感じました。
この時代は少し前のマリーアントワネットにしてもそうですが、
市民の不満が宮廷に向けられる事が多く、たくさんの噂も飛び交っていたのでしょう。
真実は誰にも分かりませんが。。
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ナプキンの芸術♪ |
必要以上であるようにも感じ、私はそれらを眺めていて
綺麗さに対する喜びと同時に、むなしさや寂しさも覚えました。
宮殿の中で暮らす事は、とても長い時間と、寂しさと、しきたりと・・つき合わなければならなかったのではないでしょうか・・
前日シェーンブルンの広い広い空間やお庭に立ち、そんなことを思ったのを思い出しました。
市民の間の貧困も大変なことですが、人それぞれ生まれ落ちた環境の中での苦労は変わらないと思いました。
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* topへ * wrote in April 2007

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フィデリオの表紙。 自筆譜は走り書き風。 |
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寄ってみることにしましたが、見渡しても看板も何もないし、入り口も分かりにくいので、誰も気付かなそうでした。
1階に記念グッズのショップがあって、真っ暗な、二人やっとすれ違えるくらいの幅の螺旋階段を上がっていくと5階が記念館になっています。
1804~8、1810~14年に彼が住んだ家で、交響曲4,5,7,8番、告別ソナタ、ピアノトリオなどなど、ここで作曲されました。
モーツアルトの家よりもさらに普通の部屋。床は板がきしきしする感じ。天井も低めで、
日本のマンションをもう少しこじんまりした感じでした。
お客さんは私しかいませんでした。
自筆譜はモーツアルトやショパンとまた全然違って、ほとんどの線や音符の丸が流れ気味。
音がよく分からない譜もありました。
急いで書いたのか、普段からそうなのか、、 どちらにしても
待っていられない?ような・・・彼の性格が表れているように思いました。^^
ショパンの部屋は家具が置いてあったり、壁もきれいに飾られていましたが
こちらの部屋はどちらかというと殺風景で
家具が少ないからだけでなく、壁やドアの装飾もほとんどありませんでした。
![]() |
大きなベートーヴェンの肖像画に見つめられながら30分ほど滞在しました。
窓からは壮麗なウィーン大学が見えました。
* topへ * wrote in sep 2007
friends * przyjaźń
さて、ポーランドでは素晴らしい出会いの連続でした。
街や自然やショパンの足跡はもちろんですが、すれ違う人、先生、ピアニスト、そして友人達♪
よく考えてみると、私は中高の頃からずっと、
人とあまり音楽の話をしないようにしていたみたいです。
ちょっと独特な世界だということを感じていたからでしょう。。
家族も親戚にも音楽家はいないし、
周りにも音大に行く人は友達の友達の友達に1人いるかいないかくらい。
生活スタイルにしても奥深い話にしても、
専門的な道で弾いている人にしか通じない事もどうしても多いので
話題に出さず1人で処理することが
無意識の内に当たり前になっていたように思います。
(でもそれは特に苦痛でもなく普通のことでしたよ^^
それに分野が違っても共通する楽しい話はたくさんありますから・・^^)
そんな中で、セミナーという場所は、
勉強できるだけでなく、いつも、音楽が分かち合える場所の1つでした。
友人に言われて気付きましたが、"研鑽"はいつも自分との戦いで
ある意味孤独な作業ですものね。。
音楽が心から好きな人達と、演奏とその生活の喜びや苦悩を思う存分語れる場所は
時に必要かもしれません^^
そして、今回は特に、ポーランドという土地であること、
そこを選んで来るということが大きかったように思います。
ポーランドには、たぶんショパンが好きでないとなかなか行かないのではないかと思うんです。
直行便もないし、言葉も英語はあまり通じません。
ドイツやウィーンやフランスのセミナーの方が行きやすく、留学生もそちらが断然多いです。
なので、ポーランドへわざわざ集まってくる人達は、
年齢も性格も様々だけれど、何か自分と共通の感覚を、もともと持っているように感じました。
目に見えないのだけれど、ある風景や音の中に起こる空気・・雰囲気?の変化に私がびっくりしていると、
隣で同じようにびっくりしている人がいるのは
とても滑稽なことであり、とても嬉しいことです。
その良さ、美しさ、哀しみを同じ量で感じることで、それが何倍にも膨らみました。
本当にありがたい旅でした。
今、出会って1年も経っていないけれど、もっともっと昔から知り合いだったかのようです
音や風景・物事から何かを同じように感じることは、素晴らしい信頼を運んでくれます。
そう感じるのなら、あれも、これも・・・と無限に広がるのです^^
きれいと思ったり、哀しいと思う心は
いざという時のその人の行動の基準になってくれるものであるように思います。
人は、時に間違ってしまったりする事もありますが、
それでも深いところでいつも信頼を持っていられるのは
その心が人にあるからであるように感じます。
それはまさにショパンの心・・・
レッスン中にもよく先生がおっしゃった
" serce (心) " に繋がってゆきます。
ショパンのセルツェがひき逢わせてくれた、数々の心でした♪
街や自然やショパンの足跡はもちろんですが、すれ違う人、先生、ピアニスト、そして友人達♪
よく考えてみると、私は中高の頃からずっと、
人とあまり音楽の話をしないようにしていたみたいです。
ちょっと独特な世界だということを感じていたからでしょう。。
家族も親戚にも音楽家はいないし、
周りにも音大に行く人は友達の友達の友達に1人いるかいないかくらい。
生活スタイルにしても奥深い話にしても、
専門的な道で弾いている人にしか通じない事もどうしても多いので
話題に出さず1人で処理することが
無意識の内に当たり前になっていたように思います。
(でもそれは特に苦痛でもなく普通のことでしたよ^^
それに分野が違っても共通する楽しい話はたくさんありますから・・^^)
そんな中で、セミナーという場所は、
勉強できるだけでなく、いつも、音楽が分かち合える場所の1つでした。
友人に言われて気付きましたが、"研鑽"はいつも自分との戦いで
ある意味孤独な作業ですものね。。
音楽が心から好きな人達と、演奏とその生活の喜びや苦悩を思う存分語れる場所は
時に必要かもしれません^^
そして、今回は特に、ポーランドという土地であること、
そこを選んで来るということが大きかったように思います。
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photo by M . K |
ポーランドには、たぶんショパンが好きでないとなかなか行かないのではないかと思うんです。
直行便もないし、言葉も英語はあまり通じません。
ドイツやウィーンやフランスのセミナーの方が行きやすく、留学生もそちらが断然多いです。
なので、ポーランドへわざわざ集まってくる人達は、
年齢も性格も様々だけれど、何か自分と共通の感覚を、もともと持っているように感じました。
目に見えないのだけれど、ある風景や音の中に起こる空気・・雰囲気?の変化に私がびっくりしていると、
隣で同じようにびっくりしている人がいるのは
とても滑稽なことであり、とても嬉しいことです。
その良さ、美しさ、哀しみを同じ量で感じることで、それが何倍にも膨らみました。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
Chopin Academy Tシャツ頂きました(笑) |
本当にありがたい旅でした。
今、出会って1年も経っていないけれど、もっともっと昔から知り合いだったかのようです

音や風景・物事から何かを同じように感じることは、素晴らしい信頼を運んでくれます。
そう感じるのなら、あれも、これも・・・と無限に広がるのです^^
きれいと思ったり、哀しいと思う心は
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人は、時に間違ってしまったりする事もありますが、
それでも深いところでいつも信頼を持っていられるのは
その心が人にあるからであるように感じます。
それはまさにショパンの心・・・
レッスン中にもよく先生がおっしゃった
" serce (心) " に繋がってゆきます。
ショパンのセルツェがひき逢わせてくれた、数々の心でした♪
wrote in 30 Dec 2006
historia * History
* アウシュビッツ -Oświęcim-
今年のセミナーにはアウシュビッツに行く予定は組み込まれていませんでした。
けれど、ここまで来て行かないのは・・・という思いがみんなの中にあり、
クラクフ観光の前日の夜に、クラクフは見れなくてもいいから自分達でタクシーで行こう!ということになりました。
当初お姉さまチーム?→の4人だけで行くつもりでしたが、他のみんなも行きたいということで、結局全員で。
クラクフをガイドしてくださる予定だったアンナさんに会った途端に「ごめんなさい・・・」と事情を説明すると、彼女も一緒に来て下さることになり大きなタクシーの手配やアウシュビッツでのガイドもしてくださいました。
アウシュビッツはポーランドではオシフィェンチムOświęcimと言うそうで、すぐ近くにもビルケナウというさらに大きな収容所があります。広島の原爆もつらい歴史ですが、こちらはじりじりとした苦しみが大きい分、とても重い気持ちになりました。
到着して、その広さに驚きました。いくつもいくつも棟があります。
電車1~3両分くらいの部屋に、自分の背丈の上までいっぱいに積まれた靴ばかりの部屋、かばんばかりの部屋、、めがねの部屋・・・・進むにつれてみんなどんどん無言になってしまいました。
75kgで入所した人が、1ヶ月で25kgになってしまった写真などもたくさんありました。
ベットも布団などなく硬い床の上に布があるだけ。
地下牢などはその暗さと湿気、暗い石の壁に押しつぶされそうでした。
立ち牢といって、日本の公衆トイレよりも少し狭いくらいの広さの場所へ4人いれられて、毎日そこで立ったまま寝なければならない人達もいたそうです。ガス室や遺体焼却炉の部屋にも入れました。
「死の壁」という銃殺場へ行く廊下を説明してもらいアンナさんが先導されましたが、足が動かなくて・・そこに入っていくことができませんでした。
どうして同じ「人」がこんなことをできてしまったのだろうと、信じられない思いで本当に悲しくなりました。悲しいという言葉では表現しきれませんが。。 日本に帰ってこんな本を読みました。
* クラクフ -Kraków-
クラクフは17世紀までポーランドの首都であり、日本で言うと京都のような街。ワルシャワ、ウッヂに次ぐ大きな都市でヨハネパウロ2世さんが通った大学や大司教を務めた教会のある地でもあります。
ワルシャワから南へ電車で2時間半くらいです。上記の通りアウシュビッツまでいったのでクラクフの観光は1時間ほどしかできませんでしたが、ここはワルシャワと違って戦災に合わず中世からの街並みが残っていて世界遺産となっているため、教会の石の壁の欠け方などにとてつもなく長い歴史を感じました。
今年のセミナーにはアウシュビッツに行く予定は組み込まれていませんでした。
けれど、ここまで来て行かないのは・・・という思いがみんなの中にあり、
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当初お姉さまチーム?→の4人だけで行くつもりでしたが、他のみんなも行きたいということで、結局全員で。
クラクフをガイドしてくださる予定だったアンナさんに会った途端に「ごめんなさい・・・」と事情を説明すると、彼女も一緒に来て下さることになり大きなタクシーの手配やアウシュビッツでのガイドもしてくださいました。
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Arbeit Macht Frei(働けば自由になる) と書かれた門 |
到着して、その広さに驚きました。いくつもいくつも棟があります。
電車1~3両分くらいの部屋に、自分の背丈の上までいっぱいに積まれた靴ばかりの部屋、かばんばかりの部屋、、めがねの部屋・・・・進むにつれてみんなどんどん無言になってしまいました。
75kgで入所した人が、1ヶ月で25kgになってしまった写真などもたくさんありました。
ベットも布団などなく硬い床の上に布があるだけ。
地下牢などはその暗さと湿気、暗い石の壁に押しつぶされそうでした。
立ち牢といって、日本の公衆トイレよりも少し狭いくらいの広さの場所へ4人いれられて、毎日そこで立ったまま寝なければならない人達もいたそうです。ガス室や遺体焼却炉の部屋にも入れました。
「死の壁」という銃殺場へ行く廊下を説明してもらいアンナさんが先導されましたが、足が動かなくて・・そこに入っていくことができませんでした。
どうして同じ「人」がこんなことをできてしまったのだろうと、信じられない思いで本当に悲しくなりました。悲しいという言葉では表現しきれませんが。。 日本に帰ってこんな本を読みました。
![]() | ![]() | ![]() |
ビルケナウ | 電流が流れていた鉄線で 囲まれています | 冬でも薄い生地の1枚の服に素足 だったそうで点呼だけで 丸1日かかったそうです。 |
* クラクフ -Kraków-
クラクフは17世紀までポーランドの首都であり、日本で言うと京都のような街。ワルシャワ、ウッヂに次ぐ大きな都市でヨハネパウロ2世さんが通った大学や大司教を務めた教会のある地でもあります。
ワルシャワから南へ電車で2時間半くらいです。上記の通りアウシュビッツまでいったのでクラクフの観光は1時間ほどしかできませんでしたが、ここはワルシャワと違って戦災に合わず中世からの街並みが残っていて世界遺産となっているため、教会の石の壁の欠け方などにとてつもなく長い歴史を感じました。
Kuchnia Polska * Polish Cuisine
![]() |
![]() *żurekジュレックというライ麦を発酵したポーのスープです。少しすっぱいです。でもお店によって味が違いました。他にもスープはたくさんあって寒い中あったまってとってもおいしかったです。 |
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![]() *ピエロギというポー料理。水餃子のようなもので、でも中身は色々☆デザートみたいに甘いものもありました。 |
夜は外で食べたりジェカンカのキッチンで作ったりしていました。
買い物や注文は一苦労でした

「ぷろしぇん ふるぃとゅき(・・;)なヴぃのす・・」(フライドポテトを持ち帰りで・・)を3回ゆっても通じない

最後にポツリと「French fries


「ah~~♪」って・・。英語通じるし・・

でも英語はたいてい20代の人くらいまでしか通じませんでした。
まぁでも、そんなお陰でポ語を使う機会が持てました。
ごはんに必須なポ語は、
proszę ぷろしぇん /please
to とー /this
na wynos なヴィのす /(with)takeout
i いー /&
jeden いぇでん /1
dwa でゅヴぁ /2
sto g ストグラム /100g
rachunek らふねく /check
tak たく /yes
nie にぇ /no
dziękuję じぇんくぃえん

くらいでしょうか。。これでなんとかなりました

ごはんの時は特に指さし会話帳

私も一番しゃべろうとしてました。
やっぱり食べ物のためならがんばれるみたい。。
せっかくだしと思って、私は日本食を全く持っていかず、向こうのものをたくさん食べましたが
日本の味付けと似ている物も結構あり、特に和食が恋しくはなりませんでした

ビゴスというお肉?と野菜?を煮て炒めたような料理は切り干し大根と同じ味でしたよ☆?
主食はポテトで、ソーセージや乳製品・スープなどがお国料理みたいです。
言葉にしてもそうですが、やはりドイツとロシアの中間という感じがしました。
*ジェカンカのキッチン。コンロとオーブンが使えました。 右の写真の手前の瓶はchrzanフシャンという西洋わさびで主にソーセージにつけて食べますがこれがおいしかった☆ わさびほど辛すぎず、すりおろし生姜のような食感?初めて食べました。 | ![]() ![]() |
![]() ![]() |
*旧市街にあるレストラン。通訳の留学生さん達も一緒にちょっと高級なお店へも行って見ました。といっても・・・ポーの食費は日本の3分の1くらいですみました。ポーの留学事情やロシアにいた子の話がきけました。ロシアはやっぱり留学生活大変そうでした![]() ![]() ![]() ![]() |
wrote in 1 Apr 2006
Pogoda * Weather
![]() | ![]() |


初めての雪国対策に、コロバンドを買っていってみましたが、なかなか歩き易くて活躍してくれました



でもみんなも私も使い捨て覚悟で靴を用意しましたが結構大丈夫でした。留学生は普通に細いヒール靴もはいていましたよ

順調に歩き続けていましたが・・・最後の日に雨が降り、そして止んだ後は大変でした

歩道にはビルの上から氷のかたまりがドーーン!!っと落ちて!!危険!!

そして滑る滑る



wrote in 10 Mar , 27 Jun 2006
pianista * pianist
さて、Rafał に会えたときの様子です。 彼には会える予定は全くなかったので、本当に本当にラッキーでした ![]() 友達と感動のまなざしで見つめていると 「Do you like Chopin ?」と恥ずかしそうに話しかけてくれました。 コンサートに行った事やコンクールを泣きながら聴いていたことを伝えるとまたはにかんでいて、 優勝者と思えないくらいの謙虚さ、そして・・なんともいえない透明感を感じました。 彼の手はショパン博物館で見たショパンの手とそっくりでした。 男性にしたら細いくらいですが大きな手でした。 容姿も演奏も、あんなにショパンと重なるピアニストは今までにいないですし、今後もなかなか出てこないのではないでしょうか。 「弟子から見たショパン」の中にでてくる、ショパンの演奏に対する弟子の感想は、私がRafałに感じたものと同じでした。 もしRafałの演奏を聴いていなかったら、その文章を大げさに感じたかもしれません。しかし、彼のおかげでそれを実感として感じることができ、ショパンの演奏を想像することをより容易にさせてくれました。 審査員も次々と涙を流し、コンクールを聴いていた多くの人が、彼を通してショパンに会えたのです。 これは多くのピアニストにとって、念願であり、感動であり、 そして再現芸術を演奏する者にとって、作曲家と同化する、ということは、 基本かつ究極な目標であります。 彼は奇跡のようです ![]() | ![]() ![]() ![]() |
そして、ポーランドでは入賞ツアー直後の山本貴志くんにもお会いできました。
演奏にも、言葉1つ1つにもあまりにも感動してしまって涙が止まりませんでした

すごく謙虚な方なのですが、あんなに美しく心に響く音楽ができるまでには、人並みでない努力と向上心、
頭の良さ、5感をフルに使える感性が必要で・・本当に尊敬です。
そして世間から天才と呼ばれる人々に会った感想としては・・・
内に、ものすごく強い精神やポリシーを持っていて
その才能を守らないといけないと周囲に感じさせる雰囲気をもつ・・という印象でした。
きっと多くの人が自然に彼らのために動きたくなったり、邪魔をしないように気遣ったりして
もっている能力が存分に発揮されるよう願うのではないでしょうか。。
そういえばショパンの周囲もそうでしたね。。
テレビで見ていた人々、しかも自分の理想な演奏をする人達にそれから4ヵ月後に会えてしまうなんて・・・
人生何が起こるかわかりません😊
そして、音楽を好きな心、これが何よりも大切なのだと感じました。
もう一踏ん張りという時、「極めよう」と思う気持ちを支えてくれるのは、この「好き」という気持ちなのでしょう。
wrote in 15 Apr 2006
Kościół * Church

![]() |
photo by T.I |
ここはショパンの心臓が眠っています。
ショパンは1830年に家族や友人を残した故郷を離れてから、一度もポーランドの土を踏む事ができませんでした。遺体はパリの墓地に埋葬されましたが、心臓だけはショパンの遺言どおりポーランドへ持ち帰られました。

ミサに参加してパイプオルガンの響きの中で色々なことを感じたり、
またその空気の中で自分を振り返ったり家族や友人を思ったりしながら毎日静かな時を過ごすことができたのはとても良い時間でした。いつ行っても少なくとも10人くらいの人がいて、みんなお祈りしたり、懺悔室に並んだりされていました。
この空気の中にいると自然に神聖な気持ちになれ、自分がどう生きたいのかを穏やかに再認識でき、お風呂に入った後のようなさわやかな心地よさが体にありました。
![]() ![]() ![]() |

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私はたくさん入った教会の中で、この教会が一番好きでした。
いつもは玄関を入ってさらにもう1つの扉がしまっていて、窓越しにしかのぞけなかったのですが、1日だけたまたま入れました。

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すごくたくさんの人と、テレビカメラの人達、なんだろう?と思っていたら、途中でお葬式であることに気付きました。
もの哀しい音楽がずっと奏でられていて、寂しくなるけれどとてもきれいな音楽でした。
数日前の屋根の落下事故の方だったのでしょうか。お祈りしてあとにしました。

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ワルシャワとは離れた都市の事故でしたが、この教会には長蛇の列ができていたそうで(友人談)街中の人がお祈りに来ていたそうです。
カトリック王国の姿が感じられた出来事でした。
日本でも事故などがあった時、もちろん皆同じ気持ちで祈ると思いますが、
実際に足を運んで祈ること、またそういう場所があるのは、
祈られる人にとっても祈る人にとっても、その人の生き方にまた違う何かを生むように感じました。

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歴代の王の戴冠式はここであったそうで、地下にはパデレフスキなどポーランドの著名人の墓碑もたくさん置かれている場所です。
ワルシャワにおいてオルガンが最初にできた教会でもあるそうです。
wrote in 15 June 2006
Lekcja * Lesson

ピアノレッスンは到着3日目からショパン音楽院にて1~2日置きにありました。
練習室は毎日4~5時間くらい使うことができ、他の時間は他の子のレッスンを聴講したり、
市内を散策したりしていました。
私が師事したマナステルスカ先生はとても穏やかな方で、音の想いを大事にされ、
語りかけるような音が印象的でした。
バラード1番の出だしを弾かれた時のCの音から広がった世界は今でも忘れられません。
そのCの音を先生は「種」と表現されていらっしゃいました。
マズルカでは、戸を閉めた時と開けた時に聴こえてくる音楽や、
拍のアクセントについてお話してくださいました。
- Chopin -
アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ
バルカローレ
マズルカ op.59-2
バラード g moll
* * *
![]() |
それはBarrySnyder先生(米人)と同じものでした。
アメリカはロシアからたくさんの亡命者がいたので、
その時にたくさん良い芸術も伝わったそうです。
それは腕の重さや体を自然に使い、指の付け根を支点として指先に効率的に圧力を運ぶことができるメソッドで、大きなホールで遠くまで豊かに響く音(open sound)を弾くのに大切な奏法です。
演奏する時一番大事なのは、いつでも、心で感じ、耳でその音を求めていくことではありますが、
メソッドは身体の面からそれに近づく手助けをしてくれ、また教える時に非常に役立ちます。
パレチニ先生のレッスンも聴講しました。
おやじギャクをかなり連発・・通訳の方も友達も苦笑い状態で(・ー・;あはは?
受けなければ受けるまでゆっちゃうような・・^^雑誌などで見るイメージよりも砕けていて明るい方でした

演奏家なのでたくさん弾いてくださり、1小節ずつとても細かいレッスンで
やはり音に対する妥協がなかったです。^^
そんな中、ポーランド人としての先生方に共通して感じた事は、
穏やかさの中にある強さや深さで、心・気品を大事にしていることでした。
それはショパンの音楽やポーランドの街全体、歴史から感じるものとも共通していました。
またポーランドの人達は、ショパンを愛し尊敬しているのと同時に、
そっと守り、支えているような印象も受けました。
帰ってきて1ヶ月経ちましたが、行く前と後ではショパンの音から感じる世界が明らかに変わりました。
ポーランドを訪れたことがある方の文章や演奏も分かるようになった気がします。
自分が表現するにはまだまだたくさんの努力が必要ですが・・・
私はポーランドのその音楽の作り方、演奏姿勢・精神がとても好きでした。
wrote in 22 Mar 2006

今回、ポーランドの民族舞踏のレッスンもありました。
ポロネーズ、マズル・オベレク・クヤヴィヤク、クラコヴィアクの踊りを
それぞれ見せてもらいながらみんなで踊りました。
とても楽しい時間で、先生の踊りや体で感じるリズムはとても勉強になりました。(

まず初めにポロネーズをしました。
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綺麗に歩くのが難しかったです。
足の出し方、顔の左右への向け方などの基本はバレエと同じでした。
アーチをくぐったり大勢でつながったりしながら、
楽しくて満面の笑みになって踊っていた私ですが、
「宮廷舞踏なので微笑みの口は小さくにっこりくらいにしましょう」と言われちゃいました(^^*
ポロネーズは、今の時代でも高校の卒業式などお祝いの時に踊られるそうです。
次はマズル。
先生が踊り始めの体勢をとっていたので、パートナーと手を組んで真似ようと準備していたら、
「ぎゃーー!!」という奇声にちかいような掛け声でダンスが一瞬のうちに始まり

すっごく速い動きと活発さにびっくり!みんな大うけ

その場みんなのテンションが一気にあげられて、そのパワーはすごかったです

みんなと踊ったマズルはもう少し簡単なものにしてもらえました(^^
次のオベレクは思っていたよりも随分速かったです。マズルとそんなに変わらない感じでした。
その次はクヤヴィヤク。マズルのようなにぎやかさはなくしっとりとしたステップでした。
最後に踊ったのはマズルだと思っていましたが、あれはクラコヴィアクかな?
みんなで輪になって横に走るようなステップで回って8拍ずつの振りでした。
ショパンの「マズルカ」はマズル・オベレク・クヤヴィヤクの
3つの舞踏曲が混ざり合って作られている曲です。
彼は小さい頃から生活の中でこれらの舞曲に普通に触れ、
ワルシャワから亡命した後も故郷を想い生涯そのリズムを書き続けました。
しかし「マズルカ」は踊るための曲ではなく、 ショパンの頭の中で作られたファンタジーな芸術作品です。 実際に見れて踊れて、演奏の為にもとても良い経験になり、 毎日レッスン受けたいくらいでした。^^ 最後にポーランド民謡を歌ってくださいました。それは日本でよく知られている ♪森へ~行きましょ~~娘~さん~ でした ![]() | ![]() |
wrote in 22 Mar 2006

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修了式 |
全てのレッスンが終わって数日後、修了式、パーティーがありました。
マナステルスカ先生には
「とても音楽的で、あなたの伝えたいことが良く分かります。あなたの演奏、私とても好きです。」
と言って頂け、修了演奏会に推薦して下さりとても励みになりました。
自分でレッスンのMDを聴いていくと、初日と後半が別人のように演奏が違いました。
テンポの設定、ペダルの呼吸、ほんのわずかな違いですが、
その曲の”空気”が変わっていました。
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マナ先生クラス |
余計な表現はせず、体と連動した自然な呼吸を取り入れ、
どの曲も、全体的なテンポは遅め。。
ショパンが生きていた頃の時間の流れを思い起こさせていただけました。
それは、音楽そのものの形やきらめきをよく見せてくれ、
一聞地味に聞こえるかもしれないけれどずっとずっと心に残る、
そういったものの美しさや素晴らしさを、改めて感じることができました。
帰ってきて月日が経つと、色々なものに埋もれてまたそれを忘れてしまうことがよくあります。
未熟な演奏なのだけれど、この時のMDには何か貴重な空気が存在していて
今もふと、教えられ、基本に戻らさせてくれることがあります。
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ディプロマ & 先生からの贈り物 |
修了セレモニーで一人ずつディプロマをいただいた後、
マナ先生はなんと、門下生全員にプレゼントを用意してくださっていました

袋には一人ずつ名前を書いていらっしゃったので、先生は一人一人お考えになって
CDや楽譜・小物を選んでくださったのでしょうか?
修了式で先生からのプレゼントを頂いたのは初めてでした。
サンタさんのようにプレゼントを配る、とても温かいお心遣いに感動したセレモニーでした。

wrote in July 2007
Academia * Academy
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学校内はとてもきれいでした。このあいだのショパンコンクールで一斉に学校も街もきれいになったそうです。写真はエントランスすぐのところにあるショパン像。右にいくと、写真のようにコートを預けるクロークがあります。クロークはお店などどこにいってもあって、預けるように言われます。このクロークのおばちゃんは毎日挨拶してもいつも無表情な顔でしーん。。。でも、1週間くらい経った時、引き換えの札を渡す前に、私の顔を見てコートを持ってきてくれて、「wa~~




階段を上がるとレッスン室や練習室、ホールなどがありました。ロの字型の建物なので、向こうに見える窓のところが練習室です。
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フランスの時はハンマーがおれてたり、ペダルがあがらなかったり、鍵盤がもどってこなかったり。。今回はそこまでではなかったですが常にシャラララ鳴っていてペダルの練習ができない部屋や、ある音だけ音質が飛び出たりひっこんだりすることも普通です。レッスン室のピアノは普通に弾けるものだったので、そういえばピアノってこいう楽器だった・・とレッスンのたびに思いました

でも、そのアカデミーのピアノ達も味があって・・今は懐かしいです。
休憩の時は窓の向こう一面の公園を眺めてました。雪の中を散歩の犬が嬉しそうに走り回っていました

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ここでびっくりしたのは空気が「静か」だったこと。雪が音を吸収するのか、無音というものを初めて体験した気がします。普通は静かだと、何か機械のぶーんという音がしていたり、外の音が聞こえたりしますよね?そういうものが全くなくて、ほんとに無!誰かがしゃべらないとシーーーーーンとなって、そして音がないと平衡感覚?とか距離感がおかしくなるような・・・不思議な感覚がありました。
・・・今日本は春になってきて、空気が生き生きと動いていて・・空気にも生命を感じますが、そのポーの冬の夜は空気の中に何の息吹もなく、すべてが寝静まっている・・という感じでした。そういう空気の中で毎日過ごしていると、自然に人の気も落ちついたものになってくるのでしょうね。。^^?
wrote in Apr 2006
Chpin’s Footsteps

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ジェラゾバヴォラにあるショパンの生家へも行きました。
ワルシャワから車で1~2時間くらいで、移動中はのどかな広い風景でした。
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ピアノも展示してありましたが、黒鍵の幅が狭くて長かったです。
これなら黒鍵のエチュードも弾きやすい??
オクターブも届きやすいので白鍵も少し狭いようでした。
ピアノの高さも低いので、弾く姿勢も現代とは異なってきますね・・・
ショパンのお気に入りのピアノはプレイエルでした。
プレイエルに関するショパンやその弟子、リスト達の言葉が残っています。
「気分のすぐれない時はエラールのピアノを弾きます。これだとすぐに完成された音が出せますからね。でも元気があって自分だけの音を出してみたいなと思うときは、プレイエルが必要なのです。」 |
カラソフスキが聞いたショパンの言葉 |
「ショパンは少しやわらかくヴェールがかったような、銀のような音色のタッチの軽いこのプレイエルピアノをとりわけ愛用していた」 |
リストの言葉 |
「ショパンは極端に強いピアノの音には耐えられなかった。そんなものは「犬の吠え声」だと言っていた。昔は楽器も小さくて華奢なものだったから、フォルテを引くと本当に不快な音がしたのである。」 |
ミハウオフスキによるミクリの言葉 |
* ミハウオフスキはミクリの弟子、ミクリはショパンの弟子です。 |
「弟子から見たショパン」より |
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ショパンの手形もありました。小指がとってもながくて指は細め。
私より少しだけ大きいくらいでした。よく小さいと言われるショパンの手ですが、そんな事はないと思いました。楽譜から音符を拾っていても、10度は普通に届いていたことが分かりますし・・なぜそのような噂が広まったのでしょうね?リストより小さかったからでしょうか。
デスマスクもありましたが、本当はもっと苦しそうな顔をしていたものを少し穏やかに作り直したものだそうです。
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これはジェラゾバヴォラでで撮った 自筆譜です。 |
20歳くらいまでの手紙はとてもきれいで丁寧な字で、晩年になると走り書きになり、行も少し斜めになっていたりして(若い頃のものにはそういうものはありませんでした)病気による呼吸の乱れを感じました。
楽譜も細かく丁寧に書いてあり、ペダルの指示やデュナーミク、アクセント記号などももちろんそのままでした。
ウィーンではモーツアルトとベートーヴェンの自筆譜を見ましたが、
それぞれ特徴的で性格がよく出ているように感じました。
wrote in Mar 2006