Les maisons où Chopin habitait à Paris
すべて地下鉄や徒歩で、1~2日あれば行ける範囲です。
パリは今でも家具付きでの賃貸が多く、引越しもしやすかったのでしょう。
そんな家々を私の目線でご紹介です。
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メトロ⑧⑨Grand Boulebvar
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サクレクール モンマルトルの丘を登った所にあります。 |
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その丘全体を見渡せるアパルトマンでした。
「美しいマホガニーの家具つきの部屋の並木道にはりだしたバルコニーからは
モンマルトルからパンテオンまで見える。端から端まで、
見える景色が全部美しい。この景色を羨む人は大勢いる。階段だけは
誰も羨ましがらないけどね。」
と、ショパンはパリへの期待を膨らませます。
今はこの入り口らしきものとプレートしか残っていませんが(右写真)
ここの5階(日本の6階)に住んだそうです。
この隣のビルに入れたので、景色が見られるかな?と階段をのぼっていたら
おじさんに「Chopin?」と話しかけられました。
そのおじさんはクラシックファンなようで、
その界隈のことをたくさん説明してくださいました。フランス語でしたが・・・。^^;
想像を含む解釈では・・・
このすぐ角を曲がった所に、モーツアルトがパリ滞在時に住んだ家があるそうで、
お母さんが亡くなったのはその家だとか。。(追記*4年後に訪れる事が出来ました♫)
そういえばその出来事の様子はモーツアルトの手紙にも残っています。
あの出来事がそんなに近くであったんだと・・・
パリはヨーロッパの中心な土地なだけに、ちょっと歩いただけで様々な歴史の破片に出会いますね。。。
他にもその近くにプレイエルとリストが会ったサロン、有名な作家(名前おっしゃっていましたが忘れました・・)の家もあるそうです。
日本を発つ前、パリの地図を眺めているだけでもワルシャワやウィーンとは様子がまた違って
様々なことを感じました。
歴史で習ったような建物や、名前をよく知っている文化人の住まいが近距離に多々あるかと思えば、
血の歴史も多く立ち上ってきてちょっとクラクラしてくるような。。。
政治、文化、人種のるつぼなパリは、美しいものと胸が痛むもの・・清濁両方を強く感じ、
都会の宿命なのかと思ったりしました。
それにしても旅先での突然の会話は、思いもしない情報に出会えることも多く、出会いに感謝です。^^
おじさんの話がとまらなくなって、最後の方はちょっとだけ困りましたケド・・・(^m^)
みなさん親切です。^^
wrote in Aug 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑧⑨号線Grands Boulevards
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近くのパッサージュ(アーケード)にオテルショパンがあり訪れてみました。パッサージュには可愛い雑貨屋さんがいっぱいでした。 |
大変ということで、こちらの1階(2階)に引っ越しました。
1つ目の住居から10分も離れていない場所です。
そして今頃気が付きましたが・・・ここ訪れていません

付近はよく歩いていましたが・・・。。
と言うわけで写真はなしです。
(シテ・ベルジェール4番地というのは、現在はヴィクトリア・ホテルの一部だそうです。)
ちなみに私たちがパリで滞在したホテルはここや一つ目の住居の近くで
部屋は5階でした。 エレベーターはなしです。。。

23kgのスーツケースをガタゴト上り下り・・・大変でした

しかも合間でノアンへ行ったので、1Fの受付に預けるためまた運び・・・
帰ってきてからはさらに6階の部屋へと昇格

階段の高さはなぜか不ぞろいで、1段ずつ高かったり低かったり、
幅も狭かったり広かったり。。かなりアバウトです(笑)
リズムがとれない昇降は余計に息が切れるように感じ

部屋に着く頃にはぜぇぜぇ。。汗だくに。。
かつてのご婦人やショパンの苦労が身にしみたのでした。^^
そして、滞在中何度も往復したポワソニエール大通りは
同じようにショパンも歩いた道。
ワルシャワやウィーンと違って、パリは外国人がいても気にもとめない
都会らしい寛容と孤立を持ち、
活気のある並木道の街の音に触れながら、ショパンの心を肌で感じた気がしました。
ここの住居では、向かいのアパルトマンに詩人のハイネが住んでいて、
ショパンと交流もあったそうです。
wrote in Aug 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑦⑨Chaussée d’Antin La Fayette
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オペラ座 パリは建物、教会、道、全てが大きいです。 |
この頃、ロスチャイルド家のサロンでの演奏の評判のおかげで、ショパンにはレッスン依頼が殺到し、また楽譜出版も進み、演奏家・作曲家・教師という地位を確立していきます。
この家にはリストやメンデルスゾーン、ベルリオーズがたびたび集まり、
ピアノを弾いたり語り合ったりしていました。
エチュードop.10(「革命」や「別れの曲」など)はこの頃完成し、
リストに献呈されています。
華麗なテクニックで人を圧倒するリストの影響や当時の社交界の流行もあって
ショパンもこの時期華やかな曲を書きますが、
サロンでも控えめに微笑み、ピアノを弾くのもいつも最後で、人に譲っていたショパンは
もっと繊細で、心に染み込むようなニュアンスを持った、彼らしい音楽の道へ進んでいきます。
この3つ目と4つ目の住居は今はもう番地がないので、写真もまたまたなしです。
周辺の様子は、そうですね・・神戸で言うと三宮を大きくしたという雰囲気でしょうか。ちょっと違うかな(笑)
ギャラリーラファイエット=神戸大丸、オペラ座=神戸国際会館 ・・?^^(ローカルな話ですみません)
ちょうどそこから10分くらいの旧居留地街にショパンの家があった感じです。(笑)
wrote in Oct 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑦⑨Chaussée d’Antin La Fayette
この頃ショパンはポーランド出身の幼馴染マリアに再会、恋をし、プロポーズ、
結婚準備のため、同じ通りの38番地の広い部屋に引っ越ししました。
しかし、ショパンの体の弱さでマリアの両親の反対もあり、結局婚約は解消されてしまいます。
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ドラクロワ作 |
作家のジョルジュ・サンドと出逢っていました。
「なんて虫の好かない人だろう、あれが女性なんだろうか。」
男装してサロンを巡っていたサンドに、ショパンはそんな言葉を残しています。
サンドのほうはショパンにすぐに心惹かれ、何度もサロンに招待したりしていました。
しかしサンドの温かさに触れるうち、ゆっくりとショパンの心も変化します。
「3度あの人と会った。ピアノを弾いている間、目の中まで深く見つめるのだった。
・・・・黒く暗い燃えた瞳が僕を包んだ。私の心は奪われてしまった。
それから2度会った。・・・彼女は僕を愛している。
・・・オーロール(サンドの本名)・・・なんと美しい名前だ。」(「ショパンの手紙」アーサーヘドレイ)
その頃サンドは、ショパンの友人グシマーワに、ショパンの気持ちを尋ねる手紙を書くのですが
これが、ものすごい長文デス。本で13ページなので実際の手紙は50ページくらいなのでしょうか?^^;
内容は、自分が身を引くべきなのか、そうしなくて良いのか、と、
ショパンのことを一番に考えたとても愛情深い文章です。
また、この手紙からはショパンの奥手で誠実、慎みを持った恋愛の様子が垣間見え
とてもショパンらしいな・・と思いました。
友人談によると、今でもポーランドの男の子は情熱はあるけれどとてもシャイな子が多いそうですよ。^^
1838年の春頃から2人は急速に親しくなり、秋には世間の目を逃れるためにも、
共にマヨルカ島へと旅立ちます。
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ドラクロワ作 |
wrote in Oct 2008 * b a c k << * t o p △

メトロ⑧⑫⑭Madelaine

16, rue Pigalle(20,Jean-Baptiste Pigalle) -- 1841.11~1842.9 --
メトロ②⑫Pigalle ⑫St. George ⑫12号線Torinité d’Etienne D’Orves
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現在のトロンシェ5番地 ショパンの部屋は2階 (左)通り表から (右)中庭から | こちらは現在のピガール16番地 (サンドの家はジャン=バプティスト20番地) |
2人はスペインのマヨルカ島・イタリア~ノアンへの1年の旅を経てパリの新しい家へ戻ってきます。
ノアンにいる間に友人に2つの家を探してもらうように頼んでいました。
ショパンはトロンシェ、サンドの家はピガールでした。
(※追記 ピガール16番地を眺めていた私達ですが、その後サンドの家は、
現在の「ジャン=バプティスト20番地」ということが判明しました!たぶん迷いながら歩いていたあたりだと思われます・・。)
この時のショパンの希望する部屋の間取りや雰囲気は、とても細かく手紙に残っています。
「雉鳩色だが光沢のある壁紙、つやのある細い濃緑色の襞でふちどったものがよい。 玄関は何か他の色で清潔な感じで上品なものがよい。さっぱりした落ち着いた清潔なもの、だから僕は真珠色が好きなのだ。」 |
そんなちょっとした好みが同じなのは嬉しいですね

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2人は華やかな社交界と少し距離を置くようになってきていたのでした。
ショパンはサンドの家を行き来しながらもほとんどは彼女の家で過ごしていた
ため、1841年にはトロンシェの家を引き払いました。
右の写真はこの近くのロマン派美術館。サンドの遺品も展示してあります。
当時はショパンとサンドの友人宅であり、よく集まりました。
このあたりをたくさん歩きましたが、現代的な看板のあるお店などが少なく、
昔のパリを思わせるような石造りの雰囲気、少し雨の降って湿った道が
なんとも心に残っています。
written in Feb 2009 * b a c k << * t o p △

メトロ⑫Torinité d’Estienne d’Orve
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アパートメント全体の門 | 中庭 |
ここはロの字型のアパートメントで、芸術家が集って各部屋に住んでいました。
少し坂道になった通りにあり、セーヌ川周辺や、ピガール、ブールバールの繁華街とは違って、
周りは人通りも少なく落ち着いた雰囲気でした。
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ショパンのプレート |
そこがショパンが住んだ棟です。
カルクブレンナーというピアニストやショパンの葬儀でも歌った歌手のポリーヌヴィアルド夫人、他にも作曲家や彫刻家、作家、そしてジョルジュサンドも、中庭の噴水を挟んでショパンと対角の場所に部屋を借りていました。
芸術家の住むアパート。なんだか楽しそうですね・・^^
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ショパンの部屋のドア |
「そこは入れないわよ!!」といったことを言われます。(想像)
今は普通の住居やオフィスなので入ることはできないみたいです。
中庭を一周したあとまた眺めていると、お兄さんがやって来ました。
そして、ショパンの棟へ入っていきます。
「いいな~


「入りなよ♪」という風なジェスチャーをしてくれています!?
お兄さんがショパンに見えました


というわけで、お兄さんの案内で入れてしまいました


棟の入り口のドアを開けるとすぐに階段。
そこを上った右側がショパンの部屋だったそうです。
約150年前の建物があちこちにそのまま残っていると言うのは
木造でないヨーロッパならではですね。

ここからも毎年夏にはノアンを訪れていたショパンとサンドですが、
2人が別れを迎えるのもこの住居にいる時でした。
そしてその後の過酷なイギリス滞在からやっとの思いで帰って来たのも
この住居です。
ショパンにとってはとても思い出深い住まいだったことでしょう。
イギリスから戻ってきたショパンは友人たちのたくさんの見舞いを受け、
支えられながら、これまでの音楽観をまとめようと、教則本を書き始めます。
written in Aug 2008 t o p △

メトロ⑥⑨Trocadéro
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シャイヨーの丘からの眺め |
シャイヨーは、資料に「パリ郊外」と書いてあったため、どこかよくわかりませんでした。
ホテルの人に聞くと、エッフェル塔の近くのシャイヨー宮を指差します。
あまりに近いので、そこではないと思っていたのですが、帰ってきてからそこだということが判りました。
昔、パリは今より小さな区域を指し、シャイヨーは「郊外」とされていたみたいです。
今は地下鉄があるのですぐですが、当時は馬車ですしね・・
たまたまエッフェル塔も訪れたので、この8番目の家付近も訪れることができていたのでした。

(現在は、もう建物も区画もありません。)
ショパンはスクワールドルレアンの家も残したまま、このシャイヨーの丘に別荘のような形で借りていました。
来訪者も多かったり、パリではコレラが流行していたりで、
少しでも落ち着いた場所に身を移そうということでした。(エッフェル塔は当時はまだありません。)
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「来られるなら、どうか来て下さい。」
ショパンの珍しいくらいの必死の訴えが続きます。
「なぜこんなにルドヴィカに会いたいのか自分でもわかりません・・・」
死期を悟り始めたショパンは手紙で懇願したのでした。
前回のパリ&ノアン以来の、5年ぶりの再会でした。
閉鎖された国境を越える通行証をとること、夫の仕事・体裁・・・
当時彼女が西ヨーロッパへやって来ることは簡単なことではありませんでした。
「葬送」に出てくるこの再会のシーンはとてもとても、印象的・・です。



サンドと別れた後、ショパンはイギリスに渡り、慣れない生活とコンサートの毎日、
体調はみるみるうちに悪化してしまいました。
5年前とは随分変わり果て、衰弱してしまったショパンを目にした時、
ルドヴィカはどんな気持ちだったことでしょう。。。
彼女は予定を変えてポーランドに戻らず、献身的に看病し続けました。
ショパンの手紙は、この住居で書いた9月17日のフランコム(友人チェリスト)宛のものが
絶筆となりました。
written in Feb 2009 t o p △

メトロ③⑦⑧Opera、①Tuilerie、①⑧⑫Concordo
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最期を感じ取った周囲の人が、医師や訪問者が訪れやすいように、また、南向きの居心地の良い部屋が良いと勧め、
パリ内へ戻ってきたのでした。
ショパンは17歳の時に妹エミリアを病気でなくしています。
エミリアが亡くなるまでの様子・・・ヒルによる治療、衰弱・・・
それは目を覆うほどにすさまじいものでした。
ショパンも当時から体が弱く、同じように血を吐いたりしながら、常に「死」を身近に生きてきました。
彼女の様子は、そのまま「自分もそうなる・・」という記憶として、生涯抱えていたことでしょう。
エミリアは、若くも聡明で達観した精神を持ち、芸術的才能にも恵まれていたそうです。
ショパンの亡くなる22年前・・・14歳で死を迎えたエミリアが残した詩があります。
死ぬことは私の天命 死は少しも怖くないけれど 怖いのはあなたの記憶の中で死んでしまうこと この地上、人の運命(さだめ)のなんと哀しいこと 苦しんで、また隣人の苦しみを増やすとは |
「決定版 ショパンの生涯」 ルバラ スモレンスカ=ジェリンスカ 著 |
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お母さんよりも、お姉さんよりも早く亡くなってしまったショパン。
家族想いだったショパンもきっと、最期は、隣にいる人、遠くにいる人、
その人達の哀しみを想っていたでしょう。。
ショパンの音楽が、心にすっと入ってくるのは、そんな気持ち、、、
彼自身の想いだけでなく、いつも、
自分以外の人の心を想い、その心の位置で、音・・感情が生まれていたからなのではないかと・・・
ショパンの音を弾いていて、そんな風に思います。
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今までで一番豪華な造りでした。
最期の住居。
この部屋を手配した人の、「作曲家ショパン」への敬意を感じました。
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wrote in Apr 2009 t o p △